2010年9月9日木曜日

「お金(貨幣)はピーマン?」というお話

勿論、すでにぶつぶつつぶやいたように、お国からお墨付き(信用)を与えられた「お金」というものは、それが値段のつけられた商品であるかぎり、なんでも買える。逆にいえば、「お金」で買えないものは、「商品」とは言われない。「市場(いちば)」で競りにかけられることもなければ、商店やスーパーや百貨店などで売られることもない。

誰かが、あるスーパーで「3個で98円のピーマン」を買ったとする。するとこのことは、「98円のお金が3個のピーマンに化けた」と表現することができる。だが、実際は「98円のお金」が「3個のピーマン」に「化けた」わけではない。狐や狸ではあるまいし、そんなことは夢やおとぎ話の世界ではありうるが、このご時世では不可能だ。「98円のお金」はスーパーのレジに行き、「3個のピーマン」は誰かの買い物かごに入った、というのが、普通の人々が体験していることだ。

「98円のお金が3個のピーマンに化けた」(例の「貨」の「化」の字義を思い出して欲しい)というのは、言葉の比喩的な、ある意味ではわかりやすい「表現」なのである。
「お金は天下のまわりもの」という意味では、確かにお金は「流動的」につぎからつぎへと人の手を渡っていく。が、お金が実際に「変化する」というのは、「コイン」だったら「摩滅」したり「変形」したり、「お札」だったら「破れ」たり「皺」になったり、貨幣の物質的な「品質」が「劣化する」ということなのだ。それでも、「偽金」でないかぎり、どんなもの(商品)でも買うことができますよ、という「使用価値」は保証されている。

さて、問題はここからだ。
「ピーマン」というモノが「値段」をつけられて売られているかぎり、いつでも、どこでも「お金」は「ピーマン」になりうる。(あくまで「比喩」だからね)しかし、いつでも、どこでも「98円のお金」が「3個のピーマン」に変身できる、という保証は、この「市場」(しじょう)社会ではありえない。今だって、天候不順(特に高温障害)で野菜は値上がりしているというではないか。「98円のお金」で「一個のピーマン」も買えなくなるかもしれない。「98円のお金」が「一個のピーマン」に「化ける」こともできないかもしれないのだ。

これはいったい、どうゆうことなんだ?
そう、「お金」(貨幣)も「商品」だということ。「商品」(「サービス」という商品も含めて)は、具体的になにかをする(食べたり、飲んだり、作ったり、住んだり、遊んだり、旅行したりする・・・etc)ことができる「使用価値」とそれ自身の「値打ち」つまりは「価値」の二つの要因から成り立っている。「お金」の「使用価値」は、モノの値段(価値)をその数量で表したり(「価値尺度」)、モノを買ったらそのモノの「価値」に対して「対価」として支払われたり(「支払手段」)することだ。
けれど、あるモノの「価値」を表すことのできる「尺度」の評価が変わると、そのお金(たとえば「98円)で買えていたモノの数量や買えるものの種類が変わってしまう。

第一次世界大戦後のドイツのハイパーインフレ(卸売物価が1兆2600億倍にもなったということだ)は有名だが、わが日本では、1970年代のオイルショック時のインフレ(インフレーション=物価騰貴)が思い起こされる。要するに「お金」も「ピーマンのように」ふっくらと膨らんで、その実中身は空っぽ、ということもありうるということなのだ。(ピーマンの悪口を言っているのではありませんよ。朝取れたてのピーマンをスライスして、30〜40秒チンをする。それから、かつお節をかけてポン酢で食べる。ピーマンが甘くて美味しいではないか!)

もちろん、「お金(貨幣)は風船?」と言ってもいいのだが、ことの成り行き上、「ピーマン」にご登場願った。
そこでとりあえず、わが「普通経済学」の立場から、二つの意味で「お金(貨幣)はピーマンになりうる!」と比喩して言っておこう。

なんか、いわゆる「経済学」のおさらいのようになってしまったけど、ここでぶつぶつつぶやいて言いたかったのは、「お金」(貨幣)も「商品」だ、ということ。「お金」(貨幣)は決して、「神」のような「絶対者」ではない、ということ。「モノ」(商品)と「モノ」(商品)の「媒介者」ではあるが、それ自身「相対的」な存在である、ということ。普段使っている「お金」(貨幣)は、実に分かりやすモノではあるけれど、厄介なモノでもある、ということ。「信用」の日常について、つぶやきたかった。

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