2012年10月19日金曜日

「普遍エネルギー論」ー「太陽エネルギー」と「原子核エネルギー」について(2)

中沢新一が『日本の大転換』において示している「原子核エネルギー」への批判は、ある意味ではとても特異な視点からなされている。

普通人々は、原子核反応によって生成される「放射性物質」(ヨウ素やセシウムやプルトニウム等)がもたらす「有毒性」に対する恐怖心からか、原発の運用が実のところ国家首脳によって「核兵器」の開発を意図していることに対する異議申し立てから「反原発」なり「脱原発」を訴えるのだが、中沢のこの著書での力点はそうではない。中沢はこんな風に「原子核エネルギー」に異議を申し立てている。

「人類も含めてあらゆる生き物が生きている生態圏では、さまざまな化学反応や電気反応が起きることによって、生き物たちの活動はおこなわれている。植物は光合成をおこなって、化学的に太陽エネルギーを変換し続けている。動物の目が獲物を捕えたとき、視神経に発生する光エネルギーの変化が、動物に攻撃態勢をとらせる。人間が悦びを感じているとき、脳では化学物質であるエンドルフィンが、さかんな分泌をおこなっている。幻影も思考も、脳内に起こる電子の運動と一体である。
 ようするに、生態圏に生きる私たちの実存のすべては、安定した原子核の外側を運動する電子によって支えられている。生態圏のなかには、原子核の融合(これは太陽の内部で起こっている現象だ)や分裂(原子炉がそれを実現する)は、組み込まれていなかった。ところが、「第七次エネルギー革命」が実現した「原子力の利用」だけが、原子核の内部まで踏み込んで、そこに分裂や融合を起こさせた。そして、化学反応や電気反応ではとうてい実現できないほどに莫大なエネルギーを、物質のなかから取り出したのである。
 これによって、生態圏の「内部」に、ほんらいあるはずのない「外部」が持ち込まれることになった。エネルギー技術の領域では、これははじめての事態である。しかし、これときわめてよく似たことが、思考の領域ではすでに現実となっていた事実を、私たちは忘れてはならない。
 ほんらい生態圏に属さない「外部」を思考の「内部」に取り込んでつくられた思想のシステム、それはほかならぬ一神教(モノテイズム)である。「第七次エネルギー革命」の産物である原子力技術の、宗教思想における対応物が一神教なのである。」(p29〜30)

ここでも中沢は、「太陽」と同じように「電子」を絶対善の天使のような物語の主人公に仕立て上げている。いわば「電子生態圏」なる王国の王子さまのように「電子」を描いているのだ。ところが「電子」は、「電荷」を担った「素粒子」の一つであり、「原子核」のなかの「陽子」と同じ「物理領域に属する一物質」にすぎない。

 確かに「電子」を共有することで、さまざまな「原子」は「分子」という多様な特性を持った物質に変貌する。その「媒介」となるのが「電子」である。けれどもそのことが、「電子」を「生態圏」にフリーパスで受け入れてもよい根拠になるのだろうか?「電子」は本来的には「原子核内の陽子」と<対>になるべき存在で、「電子」の存在論(オントロギー)からすれば、「陽子」と「電子」はあたかも「男」と「女」のような<対関係>にある存在だ。(ただこの「存在」は、今のところ人間の「眼」(動物的な理性)には、「確率的な存在様態」としてしか捉えられない。)

そういう「電子」の存在論を問う以前に、我々は「電子」のふるまいが惹き起こす「生態圏」にとっての「負」の現象を思い起こす必要がある。「電子」が起こす「電気」によって、人間を含めた生物は感電死する場合もあるし、「電気」の加熱で火災が起こり、家屋が丸焼けにされ、人が焼け出される場合もある。

また「電子」は、植物やわれわれ動物の細胞内で共棲しているミトコンドリアの「エネルギー代謝」を担うものとして、ATP(アデノシン三リン酸)という「生体エネルギー」の素を「生産」してくれているのだが(クエン酸回路)、その際「細胞呼吸」として利用される「酸素」の「電子」が一つ無くなることで「活性酸素」(欠如した電子を求めて、いろんな物質の原子とアクティブに反応しやすくなる「酸素の基底的に不安定な状態」)が発生し、それが生体細胞を傷つけてガンの引き金になることもある。中沢がいうように「生態圏に生きる私たちの実存のすべては、安定した原子核の外側を運動する電子によって支えられている」だけではないのだ。

要するに、それが「生態圏」に属して居ようと居まいと、あらゆる「物質」や「道具」や「存在」は、生物にとって良い場合も悪い場合もあるということだ。中沢の論法は、なにかを良くいうときも悪くいうときも、あまりにも一方的な方向づけをするためのレトリックを多用しているような気がする。第三次の「緑の革命」を起こしたい気持ちが分らないのではないのだが、比喩や隠喩に流れ過ぎている。といっても、中沢の「流動的な思考」に教えられることもたくさんあるので、そのことはまた別のところで評価しよう。

さて、どうやら中沢は、「原子核エネルギー」そのものへの批判もさることながら、それを生み出した「一神教的な思想」を批判することが本旨のようだ。

「一神教の思想はいまから三千数百年前、ヴァリャニャックの分類でいう”第三次エネルギー革命”(註1)のさなかの中近東で誕生した。ことのしだいは『旧約聖書』に詳しく記録されている。」として、「モーゼ」「ユダヤ教」「キリスト教」「イスラム教」の「超生態圏」的な思考を明らかにしてゆく。そしてそれに対する思考法として、インド文明が創造した「シヴァ」という概念の自然宗教的な側面、「アニミズム」や「多神教の神々」がいかに「生態圏」に親和的であるかを語ってゆく。中沢は一神教である「ユダヤ教」をこうも批判している。

「一神教はその生態圏に、ほんらいはそこに所属しないはずの「外部」をもちこんだのである。モーゼの前にあらわれた神は、無媒介に、生態圏に出現する。そんな神を前にしたら、生身の人間は心に防御服でも着想しないかぎりは、心の生態系の安定を壊されてしまうだろう。」(p36)

これではまるで、「ユダヤ教」は「精神的な放射能」を撒き散らす「原子核宗教」だと批判されているようなものだ。(イスラエルの人々は決して容認できないだろう。)
 こういう中沢のレトリックが、この文章を読む読者の思考を隠喩的な錯誤に導く可能性があることを指摘せざるをえない。「原子炉」を作った人間の歴史文化的な思考を明らかにすることと、「原子炉」がかかえる「科学技術的な欠陥」を指摘することとは次元が違うはずだ。これでは「科学技術」が人間(人類)にとってどんな意味を持つのかについて、まともに議論できなくなりはしないか。

 もう一つ気になることがある。それは中沢のいう「外部」と「内部」という概念の設定の仕方だ。

「外部」とか「内部」の定義づけは、たとえば「点」とはなにか?「線」とはないか?と問うことと似てはいないか?数学上の「点」や「線」は理論上の「点」であって、「生態圏」に生きるものの「点」や「線」ではない。それと同じように、理論上の「太陽」や「原子核」は確かに「生態圏」の「内部」に所属する概念ではない。けれども、「生態圏」の現実の生活では「眼に見える点」が打たれ、「眼に見える線」が引かれている。そこで、お互いが私有する土地の「ポイント」や境界「線」をめぐって争いが起こる。(註2)

同じように、「太陽エネルギー」である「光」(電磁波)は、その波長によって良いことも悪いことも「生態圏」の生き物や物質に影響を与えているのはまぎれもない事実だ。「影響がある」ということは、その「影響」をみずからが生きる「環境」として、「内部」の仕組みに取り込んだり、排斥したりして「調整」しているということでもある。「地球」がここにあり、「太陽」があちらにある、という意味では、「星」としてはお互いに「外部」の関係にあるが、「太陽」の重力に引かれ、「太陽」の光を避けようもなく(個々の場面では避けることができるし、避けなければ紫外線による「害」が発生することは、人類はしっかりと経験積みだ)他の生物も彼らなりの「生活上の経験」によって、太陽光との付き合い方はそれぞれが工夫しているはずだ。要するに、「内部」とか「外部」とかの概念が発生するのは<関係>の問題なのだ。
「地球」は、子どもが親を「選択」できないのと同じように、順接の関係としては「太陽」が親なのであり、しかも重力の物理法則に従って「太陽圏」に「関係の絶対性」(吉本隆明)として組み込まれている。

「太陽エネルギー」は、それを現実の生活で利用しているものにとっては「内部」に属するものだ考えることが自然なのではないか? 「生態圏」を<系>として考えるなら当然「太陽圏」もその<系>に組み入れなければ、「太陽エネルギー」で生きているすべての生命体にとって生存の「系列」を組み立てることは不可能になる。順序としては、「太陽エネルギー」が地球に降り注ぐ、ということが先にあって、ではその「光環境」でどう生きていこうかと試行錯誤することになる。それは、シアノバクテリアが発生し、たくさんの藻が「酸素」を発生する環境になるとそれを取り入れてうまく生きる生物が発生することと同じことだ。「太陽圏」の活動が「生態圏」の<内部>に取り込まなければ、「太陽圏」なんて「生態圏」にとっては無意味な存在でしかない。「外部」だとか「内部」だとか議論しても意味のないことになる。

では、 「原子核エネルギー」の場合はどうか?これも中沢自身がこと細かく採り上げているように、地球の「生態圏」の内部に自然発生したことがあるということだ。17億年前の「ガボン共和国にあるオクロ鉱床」というのがそれだ。ここで中沢がすこしオカシイのは、エンリコ・フェルミたちが作った「原子炉」の評価を貶めるように、フェルミは「イノベーター」ではなく、単にオクロの自然原子炉を模倣した「イミテーター(模倣者)としてこき下ろしていることだ。こんなことが、良くも悪くもフェルミたちが人類史上初めてみずからの手で「原子炉」を作った事実に対して、なんの科学的な批判にもならないことは、「野生の思考」を持ち出すまでもなく明らかなことだ。すこし批判の論理が、手当たり次第の材料に頼りすぎて前のめりになっていはしないだろうか?(「オクロの自然原子炉」の存在を認知することは、「原子核エネルギー」が自然に「地球圏」に「内部」化されていることを認めることだ。「地球圏」には当然、「生態圏」が組み込まれている・・・)

「原子核エネルギー」への批判は、「内部」とか「外部」とか、机上の線引きをするのではなく、「原子核反応」を人類が「完全」にコントロールできるのかどうか、「原子核反応」によって生成される「有毒な放射性物質」の処理の問題を、人類が持つ「最高の流動的知性」のひとつである「科学技術的な知性」で解決可能なのかどうかを見極めることではないのか?(註3)

問題は「内部」とか「外部」とかではなく、この「科学技術」(人類の「文明」の先端に位置する思考法)をどう評価するかではないのだろうか。「科学技術」が文明化する以上、宗教上の教理の違いはあまり関係ないように思われる。現に、キリスト教圏もイスラム教圏も中華思想圏もヒンズー教や仏教圏も、そして仏教と神道がないまぜになった日本文化圏も、「原発」を所有し、「核兵器」を最後の戦争の「切り札」(「威嚇の切り札」でもあるだろうが)として所有しているし、所有しようとしている。(註4)

「一神教」と「アニミズム」あるいは「仏教」の教理的な比較をして、自分なりの好みを言えば、一神教的な思想よりアニミズム的な思考や仏教的な「慈悲」の思想の方が好きかな、ということは言える。が、このことは別の宗教思想的な問題として、別の機会に考えてみたい。(註5)

ということで、ここではとりあえず「原子核エネルギー」利用の是非については、現時点で誰も科学技術的な見極めが出来ていないことを考えると先送りにせざるを得ない。そして、「今までの原発」についてはすでに述べたように、二つの理由(「構造的な欠陥」と「核兵器」への転用)で「反対」とはっきりと異議を申し立てておく。

では、さしあたり「原子核エネルギー」を「普遍エネルギー」の一つとして利用できない現状を前提にして、「普遍エネルギー」が「普遍経済」にどう組み込まれてゆくべきなのか、あらためて考えて行きたいと思う。
 

 (註1)エネルギーの「第三次革命」は、次のように分類されている。<家の「炉」 から冶金の「炉」が発達して、金属が作られるようになる。火の工業的利用が発達するようになり、同時に家畜や風や水力がエネルギー源として利用される。金属の発達は国家を生みだす。>(A・ヴァラニャック『エネルギーの征服』)
ここで「金属の発達が国家を生みだす」としているが、いわゆる「農業」が「国家」を生み出したとする農業国家説と違って「金属国家説」を唱えているところが面白い。「国家」はあくまで「武力」で成立させられ、維持できるという「力への意志(ニーチェ)」の「暴力意志論」と読むこともできる。

(註2)国境の「境界線」も特に領海や領空に「線」を引くわけにはいかないので、人間が設定した「緯度」や「経度」でその位置(「点」)を定めて「線」を割り出している。ここでは、数学的な手法が使われている。それでもりっぱに「紛争」になるのだから、人間は面白い。

(註3)吉本隆明は、戦後いち早く始められた遠山啓の「量子力学の数学的基礎」という講義を唯一真面目に受けた講義であると述懐していたが、たぶん彼はこ のとき、ひとりの青年として「物理科学」への信頼を育んだにちがいない。あの一見「原発」を讃歌しているように誤解された「猿への逆戻り」発言は、まだ未 知である「科学技術」への、吉本隆明なりの「仄かな信頼」(だから「仄かに」科学技術と付き合って「とぼとぼと危ない橋を渡って行くしかない」という表現になる)を訴えたかったように思われる。
そしてこの「仄か」な科学技術への「信頼」は、あの吉本隆明らしい「過激な発言」として「完全に安全な原発」を求めているのであって、それができなければ「危ない」原発など止めてしまえ!という含意も含まれている。(それ以上でも、それ以下でもない発言として自分は受けとめてい る。)

(註4)特に自民党を中心にした日本の政治家の多くは、アメリカの核の傘を頼りにしながら、いざとなったらいつでも「核兵器」を作りますよ、という暗黙の担保として「原発」を所有・維持しようとしている。

(註5)ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」のイワンの台詞だったか、「神がいなければ、人間はなにをしてもよいことになる。だから、神が必要なのだ」という理屈に対してこんな風に若い頭(高校生の頃)で考えたものだ。「今まで人類は、神の名のもとに戦争をし、人々を支配してきたのではなかったか? 自分にはそんな神は要らない」といって「無神論宣言」を親に向ってしたものだ。それ以来、基本的に自分は「無神論者」ということになっている。しかし、人 が死への恐怖、死後どうなるのかいろいろ考えてしまう、という「心の在り方」を否定するわけではない、という意味では、「宗教」に関心は抱いている。 

2012年10月16日火曜日

「普遍エネルギー論」ー「太陽エネルギー」と「原子核エネルギー」について(1)

中沢新一は『日本の大転換』(集英社新書2011年)において、「太陽エネルギー」を次のように位置づけている。

「太陽の中心部では、水素をヘリウムに変える核融合反応が、大規模に続けられている。四つの水素が融合して、ひとつのヘリウムがつくられるので ある。このとき質量が減る。するとアインシュタイの方程式E=mc2によって、この質量はエネルギーに変換される。こうして太陽中心部で生まれ た莫大なエネルギーは、七十万キロあまりもの旅をして、ようやく太陽表面にたどり着く。その太陽表面で、核融合のエネルギーは光の量子=電磁波 となって、まわりに放射されるのである。
 この電磁波が約八分かけて、地球にたどり着く。地球生態圏は太陽によるこの放射エネルギーを、ほとんどすべての活動の源としている。原子力発電の技術が開発されて、地球上に持ち込まれた太陽中心部の活動の双対とも言える核反応エネルギーが利用されるようになるまで、生態圏に生きる生命の活動全体を支えていたのは、太陽の放射する光のエネルギーのみであった。人類のあらゆる営みもまた太陽の活動によって生かされていた。太陽を偉大な神とする古代の考えは、まことに的を射たものである。」(p69)

中沢のここでの太陽活動の説明はごく普通の解説で、特に異論があるわけではない。しかしながら「太陽を偉大な神とする古代の考え」に共鳴するその仕方に、違和感を感じるものがある。

古代の人々が「太陽」を永遠に存在する「神」のごとく讃え、しかもその「神」に対して恩寵を受けるために奴隷もしくは自らの同胞を「供儀」にしてその心臓を抉り出し、死体は祭壇の下で待ち受ける民衆のなすがままにさせていた、という事実を忘れるべきではない。(註1)
「神」への「畏敬」は、「神」の怒りを慮った「恐怖心」の癒しの儀式も伴っていた。「太陽」は単にただ(タダで)「恵み」を捧げてくれる「贈与」の神ではなく、「恵み」に対する「返礼」をしなければ「怒り」をもってそれに応える「恐ろしいもの」というように、古代の人々は「太陽」を認識していた。あるいは上層部の人間が民衆を統治するために「太陽」をそのような「神」に祭り上げ、利用していた側面もある(中国の「夏」の統治方法は現在でも多くの国で採用されている)。そのことをまず確認しておく必要があるのではないか?

「太陽」は、永遠不滅の絶対的な「善」ではない。実際「太陽」の寿命は、今の人間の科学的な知見でははっきりとは分らないにしろ、およそ60億年〜100億年 と見積もられている。(昔は50億年と言われていた)「太陽」は永遠不滅の「神」などではないのだ。吉本隆明が人類の寿命を「銀河系が果てるまで」あるい は「宇宙が壊れるまで」とした根拠でもあるだろう。(註2)

また「太陽エネルギー」は生物にとって生きるための「恵 み」を授けてくれるばかりではない。反対にそのエネルギーに含まれる紫外線という電磁波は、細胞内の遺伝子を壊し、癌細胞を発生させもする。「原子核エネルギー」のある種の放射性物質の有毒性ほどではないにしろ、明らかな「害」もある。

中沢新一の、人類や他の生命体を思う気持ちに異論があるのではない。けれども「太陽」が人類や他の生命体にとって良い面も悪い面もあるという事実、また「太陽」を信仰の対象にするその宗教性も頭から善しとするわけにはいかないという歴史的な事実、特に「太陽」を唯一の「神」として崇める信仰は、 一神教的な思考にとらわれた宗教として「原子核エネルギー」を批判する中沢自身の所論と矛盾するものだということを指摘せざるを得ないのだ。

「太陽」は、人類や他の生命体にとって「絶対善」でもないし、ましてや「神」などであるはずもない。「太陽」はみずからの物理的な反応の成り行きに従って核融合を起こし、その核エネルギーを「光」として全方向に発散しているだけだ。「地球」のため「光」を意図して「贈与」してくれているのでもなければ、そこに生命体や人類などという「太陽圏」外の「生態圏」が形成されていることなど知る由もないのである。

「太陽」は水素を資源としてヘリウムを生産しながら、みずから輝いている存在だ。水素がなくなれば、その輝きは失われ、恒星としては死滅してしまう。

以上のことを確認した上で、それでも「太陽エネルギー」の利用がこれからの人類や他の生命体にとって「普遍的なエネルギー」としてどのように有望であるのか、あるいはまたどのような欠点を抱えているのか、中沢の所論を追いながら検討してみよう。

その前に、「普遍エネルギー」の意味について 三つのことを確認しておきたい。

1. ここでいう「普遍」の意味は、その「エネルギー」がこの地球上に生きるほとんど全ての生命体にとって必要不可欠なエネルギー源として存在しているということ。

2. 「太陽エネルギー」や「化石エネルギー」等あらゆる「物理化学的なエネルギー」(ここに「原子核エネルギー」も加えるべきなのかどうかが問われている)とそれを利用して生態活動を行う「すべての生物の活動エネルギー」(「人間の活動エネルギー」 いわゆる「労働」だけがモノを「生産」しているのではない、ということ。(註3)「細菌やウイルスの活動エネルギー」も入る)を「普遍的に利用可能なエネルギー」として認知するということ。

3. 「普遍的に利用可能な」というときの「普遍」と は、特に人類がホモ・サピエンスとして「流動的な知性」(中沢新一) を持ち、広い意味での「ことば」でその「利用可能性」を他の同類の仲間に伝達することができる、いいかえれば「利用可能な知識」を「文明(文=言語・記号等で明示的に情報を共有)化」することができる、ということ。

 さて、中沢は「太陽エネルギーを生態圏のなかに媒介的に変換するシステム」として「太陽光発電」にその活路を見出そうとしている。なぜか?

「つまり、人類はいまだかつて、植物が実現した太陽エネルギー変換のメカニズムそのものを模倣した技術によって、産業全体を動かし、文明を育むというエネルギー体制をもったことがないのである。第八次革命(註4)の初期の段階で、重要な働きをすることが期待される「太陽光発電」こそは、電子技術で模倣された植物光合成のメカニズムにほかならない。
  太陽光発電のメカニズムは、原始的な植物のおこなう光合成のメカニズムに、驚くほどよく似ている。そこでは、植物が酵素の働きによって実現していたエネルギー変換が、半導体の働きによっておこなわれる、というところだけが違う。」(p72〜73)

つ まり中沢は、有毒な放射性廃棄物を量産しなければ決して取り出すことのできない「原子核エネルギー」に代わって、植物が日頃なんなくやって見せてくれてい る「光合成」という「中庸なエネルギー技術」を現在の文明的な技術を使って模倣しようというわけだ。それは、第三次の「緑の革命」(註5)と言ってもいい だろう。

中沢が言うように「太陽光発電」は自分も大きな期待を寄せている「エネルギーの産出方法」の一つだ。 手頃な価格の、それなりの容量を持った「蓄電池」の開発とともに、各家庭、各商店、各工場などが自家発電し、余剰分はスマートグリッドのネットワークなどを使って、不足しているところに自動的に送電できるようになればいい、と思っている。そのためには、電気の生産と流通を自由化するのがいいいのかどうか、 いろいろ議論を煮詰めなければならないだろう。その問題は別の機会にゆずるとして、これからの人類は「植物的な生き方」を文明(精神)的にも文化(心)的にもうまく取り込んでいかなければならない、という大きな方向性は中沢の論旨と同じだ。と、とりあえず言っておこう。

ただ「太陽光発電」に関して、次のような問題点があることも指摘しておきたい。

1.「太陽光発電」を行うためのさまざまな「媒体(パネル・フィルム・紙(註6)など)が開発されているが、それらの媒体を作るための材料(資源)も「有限」であること。

2.「太陽光発電」は、天候によってそのエネルギーの産出量はかなり影響されるので、かならずしも安定したエネルギー源とは言えない側面もある。

3. 「太陽光発電」を大容量で発電するためのいわゆる「メガソーラー」なる方式は、ラウンド・スケープとしての景観を損なうことになりはしないのだろうか?「景観」も「文化」の一つである。

以上、「太陽エネルギー」を利用するに際しての問題点も課題にしながら、項をあらためて「原子核エネルギー」の問題を考えてみる。

(註 1)古代の人々が、どうやら自分たちの生活に多大な影響をもたらしていると感じられる太陽」を日々経験することで、ついにその抽象的な思考力によって経験的事象を「神」という概念で絶対化したことは、人類のその段階としては自然な成り行きであったことを否定するものではない。

(註2)吉本隆明「これから人類は危ない橋をとぼとぼと渡っていくことにになる」『思想としての3・11』河出書房新社2011年6月所収)

  (註3)この意味では、アダム・スミス、リカード、マルクスなど古典派経済学が依拠した「分業」「労働」「生産」「価値」などの概念は、ある時代の人間の自己中心的な概念と看做さざるを得ない。そうは言っても人間も、一生物として自分が生きるために 自分の尺度で物事を考えるのは致し方ない面もある。

(註4)「第八次革命」というのは、「第八次エネルギー革命」のこと。A・ヴァラニャックの『エネルギーの征服』は、「人類の経験したエネルギー革命の歴史」を「七 つの段階」に分類しいるということだが、中沢は「原子力とコンピューターの開発」 がもたらした「第七次エネルギー革命」の次の段 階(「第八次エネルギー革命」)として、「植物の光合成を模倣した「太陽光発電」に「初期」の中心的な役割を担わせようとしてい る。

(註5)第一次の「緑の革命」は、「1940年代から1960年代にかけて高収量品種の導入や化学肥料の大量投入などにより穀物の生産性が向上し、穀物の大量増産を達成したことを指す。」(Wikipedia)これはある意味で は今日まで引き継がれていると言ってよい。モンサントなどによる「遺伝子操作」された種子の開発など、これも植物細胞の「核」に人間が手を出している。「原発」問題に劣らず、世界的に問題視されているところだ。
第二次の「緑の革命」は、イランでの「イスラム革命」を挙げておきたい。その宗教体制が良いのか悪いのかの議論はここでは差 し控えるとして、「利子」をめぐる「資本主義的な経済体制の在り方を考えさせられる大きなキッカケにはなった。「利子」をめぐる議論 は、アリストテレス以来いろいろあったにしても。この問題はそれこそ中沢新一『緑の資本論』が、キリスト教とイスラム教の考え方の違いを比較することで、詳しく論じている。

2011年5月11日水曜日

貨幣論(普通経済学)から普遍エネルギー論(普遍経済学)へ

経済学の父(といわれる)アダム・スミスが人間の「道徳的な感情」について考察した後、人間の「富」の性質とその形成原因について考察したのは、ワットがニューコメンの蒸気機関を改良した1769年から7年後の1776年であった。(奇しくもこの年、自国のピューリタンたちが植民地化した北米13地域の総司令官であったジョージ・ワシントンが、イギリスからの独立を宣言している。)

イギリスという、それ自体けっして大きな土地面積を持つ国でもなく、人口も当時650万人位(1786年頃の江戸時代の日本の人口が2000万人〜2500万人位)であったと見積もられている北ヨーロッパに位置する小さな島国で、どうして世界の他の国(フランスやドイツや日本など)に先駆けて「産業革命」という、世界の歴史を大きく塗り替えていく出来事が発生可能であったのか?

それが可能であった条件は、いろんな角度から論ずることができるだろう。ここではとりあえず、「感覚ー運動」体としての人類の知性が、当時火力エネルギーの主力になっていた「石炭」(かつての生命体が固体となって堆積した生態エネルギー資源)を使って、便利で(だれでもある程度習熟すれば取り扱い可能で)、力強く(たくさんのものを動かすことができる)、しかも高速可能な(量産可能な)動力装置としての「蒸気機関」(蒸気=水という物理化学的なエネルギー資源で動く機関)をイギリスという地で発明したことが、普遍エネルギー論的な視点からとらえた場合の、最大の要因だとみなしていいだろう。

               *

こう書きかけて中断したのが、昨年(2011年)の5月11日。もう1年以上も経っている。

「経済とは、あらゆる生物が生きるために行うエネルギーの収支のことだ」

と折に触れて語って来たが、「エネルギー」という概念をどこまで広げて扱えばいいのか、少し考えあぐねていた。それは、ちょうどその年の3月11日に起こった東北の地震・津波による影響と人為的な判断ミスの重なりで福島の原子力発電所が壊滅的に破損し、原子炉内の燃料棒がメルトダウンを起こす事態になったことを目の当たりにして、「原子核エネルギー」というものをどう考えたらいいのか、という問題を突きつけられたからだ。

人間に限らず他の生命体にも甚大な傷害をもたらし、死をも招く有毒な放射性物質を作り出すこの「原子核エネルギー」を「経済」に組み込んでいるのは人間だけであって、他の生物はやっていない。そんなモノを「普遍経済」の枠組みに取り込もうとすれば、「生命体の経済」を超えて「物体の経済」としての素粒子領域(今のところ人間に分っている物理領域)をも「経済」の対象にしなければならなくなる。自分にそれだけの見識があるだろうか?

この「原子核エネルギー」は「核兵器」にもなり、「水」を沸騰させて蒸気エネルギーを取り出す「熱エネルギー炉」にもなる、そういう意味では確かに人間に有用な「エネルギー」のひとつには違いない。

だが、この「核エネルギー」には他のエネルギーにはみられない根源的な問題がある。それはすでに述べたように「人間に限らず他の生命体にも甚大な傷害をもたらし、死をも招く有毒な放射性物質を作り出す」という問題だ。この「有毒な放射性物質」さえ作り出さなければ、あるいはその「有毒性」を無毒化する方法さえ見つかれば、他の生命体は別として人間にとっては素晴らしい「エネルギー」であることは誰でも認めるところだろう。人間の生物としての「運動ー感覚系統」がもたらした「動物的な理性」(ピンポイントに獲物に照準を合わせる精確な脳神経系統の思考力、という意味での「精神」)は、そう簡単にこの「エネルギー」を諦めることはできないのではないか?というのが、私なりの結論だった。

それでも「今までの原発」は明らかに「構造的な欠陥」があり、この国の地震の多さ、その規模、それによって引き起こされる津波などを考えると、いったん全ての原発を停止するほかない、というのも「もうひとつの結論」だった。

後は、「放射性物質」の無毒化、あるいはその半減期を短縮する方法があるのかどうか、今後研究することでそれは可能なのかどうか、ということを見極めることが課題なのだが、今でもそれは見極められていない・・・

そんな折りに出会ったのが、中沢新一の『日本の大転換』という書物だ。

ここでの中沢の「脱原発」の論点は、有毒な放射性物質を無毒化できるかどうかではなく、「核分裂反応」そのものが「太陽」と同じ「神の領域」に属するものであり、そんなものをこの地球の「生態圏」になんの「媒介」もなく取り入れるという行為が人間の思い上がりであり、「生態圏」の生業にそぐわない危険極まることだ、という点にある。しかも中沢は宗教学者らしく、この「核エネルギー」を「一神教的な技術」がもたらしたものとして、貨幣資本を「神」の如くその中心にすえて運営される「資本主義」の市場原理の動きと「同型」(親和)的な本質を見出している。

この書物のなかでの中沢の語り口は、思わず「そうだ!」と膝を叩きたくなる論述が多いのだが、吉本隆明の「科学技術論」の視点から見直してみると、「ちょっと待てよ?」と首をかしげざるを得ない点もある、というのも素直な感想だ。その点を項をあらためて述べてみよう。

2010年9月11日土曜日

ホントに「お金」(貨幣)は「商品」なのか?

ホントに「お金」(貨幣)は「商品」なのか?と問うまえに、「お金」という言い方はいったいいつ頃から言われ出したのだろう?と思い、とりあえず、Wikipediaで調べてみた。

「慣習的な用法として、法令用語の意味における貨幣と紙幣・銀行券をあわせた通貨を貨幣(=お金)と呼ぶことが多い。」

なんのこっちゃ、なんにも答えてくれてはいない。

仕様がないから、以前から何度か読み返している栗本慎一郎の『経済人類学』を再度読み返してみる。そこには、こう書いてある。

「経済人類学によれば、資本主義経済の金志向は、実は、市場経済的な説明をはじめからとびこえた 、ヨーロッパ文化の伝統と慣習という原因に帰せられるだろう。」(p156)

「貨幣」というコトバは、すでに見たように『後漢書』に登場してから2000年の歴史がある。だが、「お金」というコトバの起源については、学者先生は特に興味がないらしい。「金」(キン)に対する歴史的な考察はあっても、「貨幣」が庶民的にいつ「お金」(カネ)と言われ出したのかにつての歴史的考察に、まだお目にかかれていないのだ。

栗本先生がいくら、

「素材的特性ということから金より銅を重んじた中国において、また幕末にいたるまで金銀比価で銀を当時のヨーロッパの何倍も高く評価していた日本において、子安貝や棒鉄のほうを金よりはるかに尊重していた西アフリカの海岸において、云々」
(p157)

とおしゃっても、足利義満の「金閣寺」(鹿苑寺)から始まって、秀吉の「金の茶室」や大江戸の「小判」(小判金)を盗む(およそ3000両を盗んだと言われている)鼠小僧次郎吉などの話からして、どうも権力者や庶民の実感としては、日本においても室町時代あたりから「貨幣」の代表としては「銀」より「金」の方にバイアスがかかていたのではないか?と思われる。

そうして、坂本龍馬ではないが(龍馬のシンボルは「鉄砲」と「靴」)、日本が「開国」して(というより西洋資本主義列強によって開国させられて) 文明開化(西洋の文化や伝統を模倣)していく明治において、「貨幣」は庶民の間で「お金」と言われだしたのではないか?と推測してみよう。(違ってたら、誰か教えてくださいね。(^_^)/ )

まっ、「貨幣」がいつ頃から「お金」と言われ出したのか?ということと、「貨幣」はホントに「商品」なのか?という問題とは、直接かかわりはないかもしれない。が、もともと「交換手段」や「価値尺度」として出発したわけではないらしい「貨幣」が、市場経済が発達するにつれてその中心的シンボルを「金」に見いだしていく歴史は無視することはできない。
K・ポランニーや栗本慎一郎がいくら「貨幣」の「非市場性」の起源(例えば「支払(お祓い)手段 」としての貨幣)を強調しても、現在のモノのやり取り(モノを買う=お金を支払う)を体験するかぎり、「貨幣」はなんでも買うことができる(という「信用」を付与された)「自在な可能性」と「流動性」をその経済的な「本質」としていることは、普通の人々が実感していることだ。

「貨幣」を現在の普通の人々の実感(普通経済学)からいえば、あきらかに「貨幣」は「お金」であり、「通貨」である。商品の交換や流通を媒介する(その交換反応や流通速度を速める、という意味では「触媒する」)機能をそれ(貨幣)は果たしている。
モノとモノとの化学的反応を速める(触媒する)白金も、そういう機能を持った特殊な物資として「商品」取引の対象になるのと同じように、「貨幣」また、商品Aと商品Bの間のやりとり(交換)をスムーズにおこなう特殊な機能をもった記号的なシンボル体として「商品」取引の対象になるのは、対象的なあるいは抽象的な思考能力を持ってしまった人間の社会ではいたしかたのないことなのだ。

K・ポランニーや栗本慎一郎などの経済人類学者たちが、世界中からたくさんの例証をかき集めてみせてくれても、本来「商品」ではない「自然」(大地や水や石油やリンゴや他の生き物たちすべて)や「労働力」(人間や馬や牛やいろいろな生き物すべて)が「商品」になっていくように、本来「商品」ではなかったはずの「貨幣」(お金)もまた「商品」になってしまうのは、人間の抽象的な思考力(ものごとの「本質」を抽象して取り出す能力)のなせる技なのだ。

そう、「貨幣」の商品化は、どんなものからでも「利益」(「余剰エネルギー」という本質)を生み出そうとする資本主義の「論理的な答え」である、といってもいいし、資本主義の巧妙な「経済的な技術」のひとつだと言っていい。

ということで、とりあえず、
ホントに「お金」(貨幣)は「商品」なのか?
という問いには、
「NO but YES ! 」と答えておこう。

現在の資本主義的な経済社会(あるいは「貨幣」を中心にした経済体制)のすべての問題は、しかし、この「but」が抱える「絶対矛盾的自己同一」(西田幾多郎)から発生している、とも言えるだろう。
(「バットマン=batman」にひっかけて、「バットマネー=butmaney」と語呂遊びをしたいところではある。)

2010年9月9日木曜日

「お金(貨幣)はピーマン?」というお話

勿論、すでにぶつぶつつぶやいたように、お国からお墨付き(信用)を与えられた「お金」というものは、それが値段のつけられた商品であるかぎり、なんでも買える。逆にいえば、「お金」で買えないものは、「商品」とは言われない。「市場(いちば)」で競りにかけられることもなければ、商店やスーパーや百貨店などで売られることもない。

誰かが、あるスーパーで「3個で98円のピーマン」を買ったとする。するとこのことは、「98円のお金が3個のピーマンに化けた」と表現することができる。だが、実際は「98円のお金」が「3個のピーマン」に「化けた」わけではない。狐や狸ではあるまいし、そんなことは夢やおとぎ話の世界ではありうるが、このご時世では不可能だ。「98円のお金」はスーパーのレジに行き、「3個のピーマン」は誰かの買い物かごに入った、というのが、普通の人々が体験していることだ。

「98円のお金が3個のピーマンに化けた」(例の「貨」の「化」の字義を思い出して欲しい)というのは、言葉の比喩的な、ある意味ではわかりやすい「表現」なのである。
「お金は天下のまわりもの」という意味では、確かにお金は「流動的」につぎからつぎへと人の手を渡っていく。が、お金が実際に「変化する」というのは、「コイン」だったら「摩滅」したり「変形」したり、「お札」だったら「破れ」たり「皺」になったり、貨幣の物質的な「品質」が「劣化する」ということなのだ。それでも、「偽金」でないかぎり、どんなもの(商品)でも買うことができますよ、という「使用価値」は保証されている。

さて、問題はここからだ。
「ピーマン」というモノが「値段」をつけられて売られているかぎり、いつでも、どこでも「お金」は「ピーマン」になりうる。(あくまで「比喩」だからね)しかし、いつでも、どこでも「98円のお金」が「3個のピーマン」に変身できる、という保証は、この「市場」(しじょう)社会ではありえない。今だって、天候不順(特に高温障害)で野菜は値上がりしているというではないか。「98円のお金」で「一個のピーマン」も買えなくなるかもしれない。「98円のお金」が「一個のピーマン」に「化ける」こともできないかもしれないのだ。

これはいったい、どうゆうことなんだ?
そう、「お金」(貨幣)も「商品」だということ。「商品」(「サービス」という商品も含めて)は、具体的になにかをする(食べたり、飲んだり、作ったり、住んだり、遊んだり、旅行したりする・・・etc)ことができる「使用価値」とそれ自身の「値打ち」つまりは「価値」の二つの要因から成り立っている。「お金」の「使用価値」は、モノの値段(価値)をその数量で表したり(「価値尺度」)、モノを買ったらそのモノの「価値」に対して「対価」として支払われたり(「支払手段」)することだ。
けれど、あるモノの「価値」を表すことのできる「尺度」の評価が変わると、そのお金(たとえば「98円)で買えていたモノの数量や買えるものの種類が変わってしまう。

第一次世界大戦後のドイツのハイパーインフレ(卸売物価が1兆2600億倍にもなったということだ)は有名だが、わが日本では、1970年代のオイルショック時のインフレ(インフレーション=物価騰貴)が思い起こされる。要するに「お金」も「ピーマンのように」ふっくらと膨らんで、その実中身は空っぽ、ということもありうるということなのだ。(ピーマンの悪口を言っているのではありませんよ。朝取れたてのピーマンをスライスして、30〜40秒チンをする。それから、かつお節をかけてポン酢で食べる。ピーマンが甘くて美味しいではないか!)

もちろん、「お金(貨幣)は風船?」と言ってもいいのだが、ことの成り行き上、「ピーマン」にご登場願った。
そこでとりあえず、わが「普通経済学」の立場から、二つの意味で「お金(貨幣)はピーマンになりうる!」と比喩して言っておこう。

なんか、いわゆる「経済学」のおさらいのようになってしまったけど、ここでぶつぶつつぶやいて言いたかったのは、「お金」(貨幣)も「商品」だ、ということ。「お金」(貨幣)は決して、「神」のような「絶対者」ではない、ということ。「モノ」(商品)と「モノ」(商品)の「媒介者」ではあるが、それ自身「相対的」な存在である、ということ。普段使っている「お金」(貨幣)は、実に分かりやすモノではあるけれど、厄介なモノでもある、ということ。「信用」の日常について、つぶやきたかった。

2010年9月8日水曜日

「貨幣」の本質としての「信用」の形成について

前回、「貨幣」の本質として「信用」にゆきついてしまった。だが、いったい人々は「貨幣」のなにを「信用」しているのか?「ままならぬ人生」にとって「信用」とは何なのか?

難しい問いではある。「つぶやき」程度で、これが解明されるとは到底思えない。が、学者でもないのだから、きれぎれに、ぶつぶつつぶやいてみるしかない。

そこでとりあえず、日常の生活のなかの「お金」から考えてみることにする。(あえて名付ければ「普通経済学」)

とにかく、生きるために「野菜」や「お米」や「肉」などを「買って」食べている。ときには不必要な「お酒」も「買って」飲んでいる。(もう今はあまり飲めなくなってしまったが・・・)
この今の世の中で、「買う」ということは「お金」を使ってるということだ。自分が打った「蕎麦」を持って、どこかの「市場」(いちば)で「野菜」や「お米」や「肉」や「お酒」と交換しているわけではない。自分の場合は、いわゆる「現金」を持って「スーパ(マーケット)」やそれぞれの「小売店」に出かけて、それぞれの「品物」(商品)を「買って」いる。

「日本銀行」が発行した「お札」や「コイン」。「日本」という「なわばり」国家のなかで、これらの「お金」は、「いつ」でも「どこ」でも、そして「なん」でも「買う」ことができる。
もちろん「人」を「買って」奴隷にすることは「法律」で禁止されているが、どうも「法律」に触れないぎりぎりのところで、それに近いことをしている輩もいるようだ。(それは、いけませんよ!)

今調べてみたのだが、「コイン」(硬貨)という形状をしている我が「一円」玉にも「五円」玉にも「十円」玉にも「五十円」玉にも「百円」玉にも、すべて「日本国」という「文字」が記されている。それから、「お札」(紙幣)である「千円札」「五千円札」「一万円札」には「日本銀行券」という文字が記されている。(「二千円札」は、いま手元にない。もう不要の紙幣なのではないか?)

ある国の「貨幣」は、この「文字」があってはじめて成立しているのだ、ということはすでに我が「Twitter」で述べたことがあるが、現在の世界中のあらゆる「貨幣」は、それぞれの国(国家=政府)が「このコインやお札で、国内にあるあらゆる商品(ここが大事だよ)を買うことができます」というお墨付き(文字)が記されて成り立っている。要するに「国家」がこの「お金」を保証してくれているからその国の人々(国民)は、薄っぺらな「コイン」や「紙切れ」を「信用」して使っているのだ。

そうすると「貨幣」の本質としての「信用」というのは、結局「国家」(の信用)のことではないのか?ということになってくる。

アメリカの「ドル」にしろ、ギリシャの「ドラクマ」(実質的には「ユーロ」)にしろ、その「信用」(それを所有して使ってもいい、という信頼感)が低下してしまっているのは、アメリカ国内やギリシャ国内のすべての企業や商店が売っているものが「信用ならね〜」ということではない。その国の「多くの」企業や商店で売っているものが、その国の「貨幣」では、ひょっとして「買えなくなる」かもしれない、あるいは、「買えるものの数や種類が減ってしまう」かもしれない、という「不安」が渦巻いて「信用」を低下させているのだ。(いわゆる「為替(貨幣)投機」は、そういう「不安」のなりゆきを読んで、「利ざや」を稼ぐために「売ったり」「買ったり」している。)

「普通経済学」ということで、小学生にも分かる言い方をしてしまったけど、では「国家」とはなんぞや、という話になると、これはこれで、大変なお話になってしまう。
いままで「Twitter」でつぶやいてきたことでいうと、「対」(性)なる人間関係(その意識としての「観念」や「幻想」)が「3人」以上(群れ)の「社会」関係(その意識としての「観念」や「幻想」)に当面したとき、なんとか処理しなければならなくなった「暴力」や「死」(要するに「殺し合い」)の問題を「国家」(という「共同の幻想」)は内包している、と言っておこう。(「国家」の問題は、あらためてつぶやくことになると思う。)

ここでの「貨幣論」が、「暴力のオントロギー(存在論)」(今村仁司)として出発した所以だ。

2010年9月6日月曜日

「貨」「幣」という文字の原義と「貨幣」の本質について

一海知義という人の論文『「貨」「幣」という文字の原義と歴史』は、貨幣の「流動性」を文字そのものの成り立ちから解き明かしてくれていて、面白い。全文引用したいが、そうもいかないので、要点を紹介してみよう。

<漢字の字義を知る方法の一つは、その文字をふくむ熟語を作ってみることである。・・・
財貨 貨殖 貨産(財産、たから)
貨幣 金貨 通貨(金銭、おかね)
貨物 貨車 雑貨(荷物、品物)
・・・・
「貨」の字を分解すると、「化」と「貝」の二文字に分かれる。・・・>

「貝」はすでにTwitterであきらかにしたように、元祖は「子安貝」(そのカタチが女性を象徴している) のことで、特に西アフリカのダホメ王国では「金」よりも「貨幣」として重宝された。

< 財 貧 貴 買 資
賃 賄 賂 購 贈 >(すべて金銭に関係する文字)

<「化」の方はどうか。・・・「化」の左側は「人」、右側は「人」が体位を変えたで、 
「化」は人が別の人、あるいは別の形に変わることだ・・・
化石 化合 化身 化物
変化 悪化 開化 俗化
・・・・・
この「化」(変化)と「貝」(金銭)とを組み合わせた文字「貨」について、
おおむねの字書は、
さまざまな品物にかえることのできる金銭。(貨幣の流動性ーkumagoro)
あるいは、
金銭によってかえられた商品、財産としての品物。
などと説明する。これが「貨」の原義だというわけである。>

もう一方の「弊」も二つの文字「敝」と「巾 」に分解されたうえで、

<すなわち「幣」は、手にささげ持って神や天子に献上する布。「ぬさ」「ささげもの」
これがのちに「紙幣」の意に転用される。
したがって「貨幣」の原義は、「コイン」(硬貨) と「おさつ」(紙幣)である。>

と、その「原義」があきらかにされる。(まっ、このあたりは漢字学者のひとつの解釈だと思っていた方がいいかもしれない。)

それから、「貨幣」という文字がはじめて使われたのが中国の『後漢書』で、2000年来その語義を変えることなく使用されて今日に至っているということだが、「電子マネー」の登場で「貨幣」はまたもう一つの形を手にしてしまった。そしてそのことは、「貨幣」の「原義」を、「貨幣」の「本質」としてあらわに変化させずにはおかない。「貨幣」の「原義」は、「信用」という二文字をその「本質」として内に含むことになったのだ。
「貨幣」が投機の対象になるのは、この「信用」(の格付け)があるからに他ならない。
今や「貨幣」は、流動的にいろいろなモノにその姿を変えるだけでなく(先行き経済的に不透明なときは、貨幣は退蔵されてその姿を変えてくれないのが問題だが)、「貨幣」自身の「価値」(信用度の評価)が流動的に(あるいは投機的に)変動させられている、というのが各国通貨の悩みの種になっている。(もちろんほくそ笑んでいる国もあれば、ニンマリしている人間もいるだろう。)

貨幣の「流動性」とは、「人生はままならない」という魔物の 謂いでもある。