2011年5月11日水曜日

貨幣論(普通経済学)から普遍エネルギー論(普遍経済学)へ

経済学の父(といわれる)アダム・スミスが人間の「道徳的な感情」について考察した後、人間の「富」の性質とその形成原因について考察したのは、ワットがニューコメンの蒸気機関を改良した1769年から7年後の1776年であった。(奇しくもこの年、自国のピューリタンたちが植民地化した北米13地域の総司令官であったジョージ・ワシントンが、イギリスからの独立を宣言している。)

イギリスという、それ自体けっして大きな土地面積を持つ国でもなく、人口も当時650万人位(1786年頃の江戸時代の日本の人口が2000万人〜2500万人位)であったと見積もられている北ヨーロッパに位置する小さな島国で、どうして世界の他の国(フランスやドイツや日本など)に先駆けて「産業革命」という、世界の歴史を大きく塗り替えていく出来事が発生可能であったのか?

それが可能であった条件は、いろんな角度から論ずることができるだろう。ここではとりあえず、「感覚ー運動」体としての人類の知性が、当時火力エネルギーの主力になっていた「石炭」(かつての生命体が固体となって堆積した生態エネルギー資源)を使って、便利で(だれでもある程度習熟すれば取り扱い可能で)、力強く(たくさんのものを動かすことができる)、しかも高速可能な(量産可能な)動力装置としての「蒸気機関」(蒸気=水という物理化学的なエネルギー資源で動く機関)をイギリスという地で発明したことが、普遍エネルギー論的な視点からとらえた場合の、最大の要因だとみなしていいだろう。

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こう書きかけて中断したのが、昨年(2011年)の5月11日。もう1年以上も経っている。

「経済とは、あらゆる生物が生きるために行うエネルギーの収支のことだ」

と折に触れて語って来たが、「エネルギー」という概念をどこまで広げて扱えばいいのか、少し考えあぐねていた。それは、ちょうどその年の3月11日に起こった東北の地震・津波による影響と人為的な判断ミスの重なりで福島の原子力発電所が壊滅的に破損し、原子炉内の燃料棒がメルトダウンを起こす事態になったことを目の当たりにして、「原子核エネルギー」というものをどう考えたらいいのか、という問題を突きつけられたからだ。

人間に限らず他の生命体にも甚大な傷害をもたらし、死をも招く有毒な放射性物質を作り出すこの「原子核エネルギー」を「経済」に組み込んでいるのは人間だけであって、他の生物はやっていない。そんなモノを「普遍経済」の枠組みに取り込もうとすれば、「生命体の経済」を超えて「物体の経済」としての素粒子領域(今のところ人間に分っている物理領域)をも「経済」の対象にしなければならなくなる。自分にそれだけの見識があるだろうか?

この「原子核エネルギー」は「核兵器」にもなり、「水」を沸騰させて蒸気エネルギーを取り出す「熱エネルギー炉」にもなる、そういう意味では確かに人間に有用な「エネルギー」のひとつには違いない。

だが、この「核エネルギー」には他のエネルギーにはみられない根源的な問題がある。それはすでに述べたように「人間に限らず他の生命体にも甚大な傷害をもたらし、死をも招く有毒な放射性物質を作り出す」という問題だ。この「有毒な放射性物質」さえ作り出さなければ、あるいはその「有毒性」を無毒化する方法さえ見つかれば、他の生命体は別として人間にとっては素晴らしい「エネルギー」であることは誰でも認めるところだろう。人間の生物としての「運動ー感覚系統」がもたらした「動物的な理性」(ピンポイントに獲物に照準を合わせる精確な脳神経系統の思考力、という意味での「精神」)は、そう簡単にこの「エネルギー」を諦めることはできないのではないか?というのが、私なりの結論だった。

それでも「今までの原発」は明らかに「構造的な欠陥」があり、この国の地震の多さ、その規模、それによって引き起こされる津波などを考えると、いったん全ての原発を停止するほかない、というのも「もうひとつの結論」だった。

後は、「放射性物質」の無毒化、あるいはその半減期を短縮する方法があるのかどうか、今後研究することでそれは可能なのかどうか、ということを見極めることが課題なのだが、今でもそれは見極められていない・・・

そんな折りに出会ったのが、中沢新一の『日本の大転換』という書物だ。

ここでの中沢の「脱原発」の論点は、有毒な放射性物質を無毒化できるかどうかではなく、「核分裂反応」そのものが「太陽」と同じ「神の領域」に属するものであり、そんなものをこの地球の「生態圏」になんの「媒介」もなく取り入れるという行為が人間の思い上がりであり、「生態圏」の生業にそぐわない危険極まることだ、という点にある。しかも中沢は宗教学者らしく、この「核エネルギー」を「一神教的な技術」がもたらしたものとして、貨幣資本を「神」の如くその中心にすえて運営される「資本主義」の市場原理の動きと「同型」(親和)的な本質を見出している。

この書物のなかでの中沢の語り口は、思わず「そうだ!」と膝を叩きたくなる論述が多いのだが、吉本隆明の「科学技術論」の視点から見直してみると、「ちょっと待てよ?」と首をかしげざるを得ない点もある、というのも素直な感想だ。その点を項をあらためて述べてみよう。