2010年9月11日土曜日

ホントに「お金」(貨幣)は「商品」なのか?

ホントに「お金」(貨幣)は「商品」なのか?と問うまえに、「お金」という言い方はいったいいつ頃から言われ出したのだろう?と思い、とりあえず、Wikipediaで調べてみた。

「慣習的な用法として、法令用語の意味における貨幣と紙幣・銀行券をあわせた通貨を貨幣(=お金)と呼ぶことが多い。」

なんのこっちゃ、なんにも答えてくれてはいない。

仕様がないから、以前から何度か読み返している栗本慎一郎の『経済人類学』を再度読み返してみる。そこには、こう書いてある。

「経済人類学によれば、資本主義経済の金志向は、実は、市場経済的な説明をはじめからとびこえた 、ヨーロッパ文化の伝統と慣習という原因に帰せられるだろう。」(p156)

「貨幣」というコトバは、すでに見たように『後漢書』に登場してから2000年の歴史がある。だが、「お金」というコトバの起源については、学者先生は特に興味がないらしい。「金」(キン)に対する歴史的な考察はあっても、「貨幣」が庶民的にいつ「お金」(カネ)と言われ出したのかにつての歴史的考察に、まだお目にかかれていないのだ。

栗本先生がいくら、

「素材的特性ということから金より銅を重んじた中国において、また幕末にいたるまで金銀比価で銀を当時のヨーロッパの何倍も高く評価していた日本において、子安貝や棒鉄のほうを金よりはるかに尊重していた西アフリカの海岸において、云々」
(p157)

とおしゃっても、足利義満の「金閣寺」(鹿苑寺)から始まって、秀吉の「金の茶室」や大江戸の「小判」(小判金)を盗む(およそ3000両を盗んだと言われている)鼠小僧次郎吉などの話からして、どうも権力者や庶民の実感としては、日本においても室町時代あたりから「貨幣」の代表としては「銀」より「金」の方にバイアスがかかていたのではないか?と思われる。

そうして、坂本龍馬ではないが(龍馬のシンボルは「鉄砲」と「靴」)、日本が「開国」して(というより西洋資本主義列強によって開国させられて) 文明開化(西洋の文化や伝統を模倣)していく明治において、「貨幣」は庶民の間で「お金」と言われだしたのではないか?と推測してみよう。(違ってたら、誰か教えてくださいね。(^_^)/ )

まっ、「貨幣」がいつ頃から「お金」と言われ出したのか?ということと、「貨幣」はホントに「商品」なのか?という問題とは、直接かかわりはないかもしれない。が、もともと「交換手段」や「価値尺度」として出発したわけではないらしい「貨幣」が、市場経済が発達するにつれてその中心的シンボルを「金」に見いだしていく歴史は無視することはできない。
K・ポランニーや栗本慎一郎がいくら「貨幣」の「非市場性」の起源(例えば「支払(お祓い)手段 」としての貨幣)を強調しても、現在のモノのやり取り(モノを買う=お金を支払う)を体験するかぎり、「貨幣」はなんでも買うことができる(という「信用」を付与された)「自在な可能性」と「流動性」をその経済的な「本質」としていることは、普通の人々が実感していることだ。

「貨幣」を現在の普通の人々の実感(普通経済学)からいえば、あきらかに「貨幣」は「お金」であり、「通貨」である。商品の交換や流通を媒介する(その交換反応や流通速度を速める、という意味では「触媒する」)機能をそれ(貨幣)は果たしている。
モノとモノとの化学的反応を速める(触媒する)白金も、そういう機能を持った特殊な物資として「商品」取引の対象になるのと同じように、「貨幣」また、商品Aと商品Bの間のやりとり(交換)をスムーズにおこなう特殊な機能をもった記号的なシンボル体として「商品」取引の対象になるのは、対象的なあるいは抽象的な思考能力を持ってしまった人間の社会ではいたしかたのないことなのだ。

K・ポランニーや栗本慎一郎などの経済人類学者たちが、世界中からたくさんの例証をかき集めてみせてくれても、本来「商品」ではない「自然」(大地や水や石油やリンゴや他の生き物たちすべて)や「労働力」(人間や馬や牛やいろいろな生き物すべて)が「商品」になっていくように、本来「商品」ではなかったはずの「貨幣」(お金)もまた「商品」になってしまうのは、人間の抽象的な思考力(ものごとの「本質」を抽象して取り出す能力)のなせる技なのだ。

そう、「貨幣」の商品化は、どんなものからでも「利益」(「余剰エネルギー」という本質)を生み出そうとする資本主義の「論理的な答え」である、といってもいいし、資本主義の巧妙な「経済的な技術」のひとつだと言っていい。

ということで、とりあえず、
ホントに「お金」(貨幣)は「商品」なのか?
という問いには、
「NO but YES ! 」と答えておこう。

現在の資本主義的な経済社会(あるいは「貨幣」を中心にした経済体制)のすべての問題は、しかし、この「but」が抱える「絶対矛盾的自己同一」(西田幾多郎)から発生している、とも言えるだろう。
(「バットマン=batman」にひっかけて、「バットマネー=butmaney」と語呂遊びをしたいところではある。)

2010年9月9日木曜日

「お金(貨幣)はピーマン?」というお話

勿論、すでにぶつぶつつぶやいたように、お国からお墨付き(信用)を与えられた「お金」というものは、それが値段のつけられた商品であるかぎり、なんでも買える。逆にいえば、「お金」で買えないものは、「商品」とは言われない。「市場(いちば)」で競りにかけられることもなければ、商店やスーパーや百貨店などで売られることもない。

誰かが、あるスーパーで「3個で98円のピーマン」を買ったとする。するとこのことは、「98円のお金が3個のピーマンに化けた」と表現することができる。だが、実際は「98円のお金」が「3個のピーマン」に「化けた」わけではない。狐や狸ではあるまいし、そんなことは夢やおとぎ話の世界ではありうるが、このご時世では不可能だ。「98円のお金」はスーパーのレジに行き、「3個のピーマン」は誰かの買い物かごに入った、というのが、普通の人々が体験していることだ。

「98円のお金が3個のピーマンに化けた」(例の「貨」の「化」の字義を思い出して欲しい)というのは、言葉の比喩的な、ある意味ではわかりやすい「表現」なのである。
「お金は天下のまわりもの」という意味では、確かにお金は「流動的」につぎからつぎへと人の手を渡っていく。が、お金が実際に「変化する」というのは、「コイン」だったら「摩滅」したり「変形」したり、「お札」だったら「破れ」たり「皺」になったり、貨幣の物質的な「品質」が「劣化する」ということなのだ。それでも、「偽金」でないかぎり、どんなもの(商品)でも買うことができますよ、という「使用価値」は保証されている。

さて、問題はここからだ。
「ピーマン」というモノが「値段」をつけられて売られているかぎり、いつでも、どこでも「お金」は「ピーマン」になりうる。(あくまで「比喩」だからね)しかし、いつでも、どこでも「98円のお金」が「3個のピーマン」に変身できる、という保証は、この「市場」(しじょう)社会ではありえない。今だって、天候不順(特に高温障害)で野菜は値上がりしているというではないか。「98円のお金」で「一個のピーマン」も買えなくなるかもしれない。「98円のお金」が「一個のピーマン」に「化ける」こともできないかもしれないのだ。

これはいったい、どうゆうことなんだ?
そう、「お金」(貨幣)も「商品」だということ。「商品」(「サービス」という商品も含めて)は、具体的になにかをする(食べたり、飲んだり、作ったり、住んだり、遊んだり、旅行したりする・・・etc)ことができる「使用価値」とそれ自身の「値打ち」つまりは「価値」の二つの要因から成り立っている。「お金」の「使用価値」は、モノの値段(価値)をその数量で表したり(「価値尺度」)、モノを買ったらそのモノの「価値」に対して「対価」として支払われたり(「支払手段」)することだ。
けれど、あるモノの「価値」を表すことのできる「尺度」の評価が変わると、そのお金(たとえば「98円)で買えていたモノの数量や買えるものの種類が変わってしまう。

第一次世界大戦後のドイツのハイパーインフレ(卸売物価が1兆2600億倍にもなったということだ)は有名だが、わが日本では、1970年代のオイルショック時のインフレ(インフレーション=物価騰貴)が思い起こされる。要するに「お金」も「ピーマンのように」ふっくらと膨らんで、その実中身は空っぽ、ということもありうるということなのだ。(ピーマンの悪口を言っているのではありませんよ。朝取れたてのピーマンをスライスして、30〜40秒チンをする。それから、かつお節をかけてポン酢で食べる。ピーマンが甘くて美味しいではないか!)

もちろん、「お金(貨幣)は風船?」と言ってもいいのだが、ことの成り行き上、「ピーマン」にご登場願った。
そこでとりあえず、わが「普通経済学」の立場から、二つの意味で「お金(貨幣)はピーマンになりうる!」と比喩して言っておこう。

なんか、いわゆる「経済学」のおさらいのようになってしまったけど、ここでぶつぶつつぶやいて言いたかったのは、「お金」(貨幣)も「商品」だ、ということ。「お金」(貨幣)は決して、「神」のような「絶対者」ではない、ということ。「モノ」(商品)と「モノ」(商品)の「媒介者」ではあるが、それ自身「相対的」な存在である、ということ。普段使っている「お金」(貨幣)は、実に分かりやすモノではあるけれど、厄介なモノでもある、ということ。「信用」の日常について、つぶやきたかった。

2010年9月8日水曜日

「貨幣」の本質としての「信用」の形成について

前回、「貨幣」の本質として「信用」にゆきついてしまった。だが、いったい人々は「貨幣」のなにを「信用」しているのか?「ままならぬ人生」にとって「信用」とは何なのか?

難しい問いではある。「つぶやき」程度で、これが解明されるとは到底思えない。が、学者でもないのだから、きれぎれに、ぶつぶつつぶやいてみるしかない。

そこでとりあえず、日常の生活のなかの「お金」から考えてみることにする。(あえて名付ければ「普通経済学」)

とにかく、生きるために「野菜」や「お米」や「肉」などを「買って」食べている。ときには不必要な「お酒」も「買って」飲んでいる。(もう今はあまり飲めなくなってしまったが・・・)
この今の世の中で、「買う」ということは「お金」を使ってるということだ。自分が打った「蕎麦」を持って、どこかの「市場」(いちば)で「野菜」や「お米」や「肉」や「お酒」と交換しているわけではない。自分の場合は、いわゆる「現金」を持って「スーパ(マーケット)」やそれぞれの「小売店」に出かけて、それぞれの「品物」(商品)を「買って」いる。

「日本銀行」が発行した「お札」や「コイン」。「日本」という「なわばり」国家のなかで、これらの「お金」は、「いつ」でも「どこ」でも、そして「なん」でも「買う」ことができる。
もちろん「人」を「買って」奴隷にすることは「法律」で禁止されているが、どうも「法律」に触れないぎりぎりのところで、それに近いことをしている輩もいるようだ。(それは、いけませんよ!)

今調べてみたのだが、「コイン」(硬貨)という形状をしている我が「一円」玉にも「五円」玉にも「十円」玉にも「五十円」玉にも「百円」玉にも、すべて「日本国」という「文字」が記されている。それから、「お札」(紙幣)である「千円札」「五千円札」「一万円札」には「日本銀行券」という文字が記されている。(「二千円札」は、いま手元にない。もう不要の紙幣なのではないか?)

ある国の「貨幣」は、この「文字」があってはじめて成立しているのだ、ということはすでに我が「Twitter」で述べたことがあるが、現在の世界中のあらゆる「貨幣」は、それぞれの国(国家=政府)が「このコインやお札で、国内にあるあらゆる商品(ここが大事だよ)を買うことができます」というお墨付き(文字)が記されて成り立っている。要するに「国家」がこの「お金」を保証してくれているからその国の人々(国民)は、薄っぺらな「コイン」や「紙切れ」を「信用」して使っているのだ。

そうすると「貨幣」の本質としての「信用」というのは、結局「国家」(の信用)のことではないのか?ということになってくる。

アメリカの「ドル」にしろ、ギリシャの「ドラクマ」(実質的には「ユーロ」)にしろ、その「信用」(それを所有して使ってもいい、という信頼感)が低下してしまっているのは、アメリカ国内やギリシャ国内のすべての企業や商店が売っているものが「信用ならね〜」ということではない。その国の「多くの」企業や商店で売っているものが、その国の「貨幣」では、ひょっとして「買えなくなる」かもしれない、あるいは、「買えるものの数や種類が減ってしまう」かもしれない、という「不安」が渦巻いて「信用」を低下させているのだ。(いわゆる「為替(貨幣)投機」は、そういう「不安」のなりゆきを読んで、「利ざや」を稼ぐために「売ったり」「買ったり」している。)

「普通経済学」ということで、小学生にも分かる言い方をしてしまったけど、では「国家」とはなんぞや、という話になると、これはこれで、大変なお話になってしまう。
いままで「Twitter」でつぶやいてきたことでいうと、「対」(性)なる人間関係(その意識としての「観念」や「幻想」)が「3人」以上(群れ)の「社会」関係(その意識としての「観念」や「幻想」)に当面したとき、なんとか処理しなければならなくなった「暴力」や「死」(要するに「殺し合い」)の問題を「国家」(という「共同の幻想」)は内包している、と言っておこう。(「国家」の問題は、あらためてつぶやくことになると思う。)

ここでの「貨幣論」が、「暴力のオントロギー(存在論)」(今村仁司)として出発した所以だ。

2010年9月6日月曜日

「貨」「幣」という文字の原義と「貨幣」の本質について

一海知義という人の論文『「貨」「幣」という文字の原義と歴史』は、貨幣の「流動性」を文字そのものの成り立ちから解き明かしてくれていて、面白い。全文引用したいが、そうもいかないので、要点を紹介してみよう。

<漢字の字義を知る方法の一つは、その文字をふくむ熟語を作ってみることである。・・・
財貨 貨殖 貨産(財産、たから)
貨幣 金貨 通貨(金銭、おかね)
貨物 貨車 雑貨(荷物、品物)
・・・・
「貨」の字を分解すると、「化」と「貝」の二文字に分かれる。・・・>

「貝」はすでにTwitterであきらかにしたように、元祖は「子安貝」(そのカタチが女性を象徴している) のことで、特に西アフリカのダホメ王国では「金」よりも「貨幣」として重宝された。

< 財 貧 貴 買 資
賃 賄 賂 購 贈 >(すべて金銭に関係する文字)

<「化」の方はどうか。・・・「化」の左側は「人」、右側は「人」が体位を変えたで、 
「化」は人が別の人、あるいは別の形に変わることだ・・・
化石 化合 化身 化物
変化 悪化 開化 俗化
・・・・・
この「化」(変化)と「貝」(金銭)とを組み合わせた文字「貨」について、
おおむねの字書は、
さまざまな品物にかえることのできる金銭。(貨幣の流動性ーkumagoro)
あるいは、
金銭によってかえられた商品、財産としての品物。
などと説明する。これが「貨」の原義だというわけである。>

もう一方の「弊」も二つの文字「敝」と「巾 」に分解されたうえで、

<すなわち「幣」は、手にささげ持って神や天子に献上する布。「ぬさ」「ささげもの」
これがのちに「紙幣」の意に転用される。
したがって「貨幣」の原義は、「コイン」(硬貨) と「おさつ」(紙幣)である。>

と、その「原義」があきらかにされる。(まっ、このあたりは漢字学者のひとつの解釈だと思っていた方がいいかもしれない。)

それから、「貨幣」という文字がはじめて使われたのが中国の『後漢書』で、2000年来その語義を変えることなく使用されて今日に至っているということだが、「電子マネー」の登場で「貨幣」はまたもう一つの形を手にしてしまった。そしてそのことは、「貨幣」の「原義」を、「貨幣」の「本質」としてあらわに変化させずにはおかない。「貨幣」の「原義」は、「信用」という二文字をその「本質」として内に含むことになったのだ。
「貨幣」が投機の対象になるのは、この「信用」(の格付け)があるからに他ならない。
今や「貨幣」は、流動的にいろいろなモノにその姿を変えるだけでなく(先行き経済的に不透明なときは、貨幣は退蔵されてその姿を変えてくれないのが問題だが)、「貨幣」自身の「価値」(信用度の評価)が流動的に(あるいは投機的に)変動させられている、というのが各国通貨の悩みの種になっている。(もちろんほくそ笑んでいる国もあれば、ニンマリしている人間もいるだろう。)

貨幣の「流動性」とは、「人生はままならない」という魔物の 謂いでもある。

「流動性」としての知性・貨幣および政治家の一般理論

類人猿が、現在の私たちの祖先であるとされるホモ・サピエンスに進化(知的な抽象度を尺度にした場合)したとき、自分たちの「考える」という意識のあり方を不思議に思ったにちがいない。ナニカで生き物を「刺す」とその生き物からは赤い血が流れ、やがて息絶えて死んでしまう。すると、その生き物を食料にしたり、その生き物から襲われたりしないためには、ナニカ「刺せる」ものでその生き物を刺して殺してしまえばいいことになる。石器のナイフ、木の槍、弓矢、青銅器や鉄の武器、そして銃。
ホモ・サピエンスといわれる人類の思考力は、生き物の身体を「刺し貫く」あらゆるモノを考えはじめる。

人間の「流動的」思考力が、なにか「固くて鋭いもの」はいろいろな「 柔らかいもの」を刺したり、切り刻んだりすることができるということに気づいた時、さまざまな素材で、さまざまな鋭利なカタチを「道具」として作りはじめた。
「包丁」や「ナイフ」が料理の道具になったり、人や生き物を殺す道具になったりできるのは、この「固くて鋭いもの」という抽象的に把握された「概念」(イメージ)が形成されてしまたからだ。ホモ・サピエンスという人類の「流動的」で「抽象的」な知性(イメージ力)は、まさに「善悪」の根源なのだ、と言っていい。

貨幣の「流動性」について、こんな解説がある。
「流動性としての貨幣は事態を特定の状態に固定せずに白紙のままにしておくための手段である。貨幣と特定の物との関係は、たとえていえば粘土と焼き物の関係である。どのような器を作ったらいいか迷っているとき、性急に作品を作ってしまうよりは粘土のままで保持したほうがいい。これと同様に、将来が不確実であるときには、貨幣を特定の物に具体化してあとで後悔するよりは、価値を貨幣のままで保持したほうが好都合であろう。やがて雲が晴れ、将来がみえてきたときに、貨幣を物に具体化すればいいのである。」(間宮陽介『市場社会の思想史』)

「政治は金だ」あるいは「政治家は貨幣そのものだ」といった論理がここでも貫かれている。
この見地から言えば、もともと「政治家」の言説(公約や意見)は、彼が「貨幣的なポジション」に留まろうとするかぎり、時代や状況に応じて「流動的」にならざるを得ない「宿命」のうちにある、と言えるだろう。

政治家のある「政治理念」(たとえば「生活」第一主義)が、具体的なある「器」 のかたち(たとえば「子供手当」というお金の使い方)に固執できるのは、それが時代的に求められているときだけだ。「不要」と看做されれば、その「器」を作り変えるか、「器」を作った「政治理念」をいったん白紙に戻して(粘土の状態にして)理念(思考方法)を練り直すか、「政治家」(人間貨幣)を止める他ない。

2010年9月5日日曜日

「貨幣論」(お金の話)の場所替え

これから、Twitterでやっていた「貨幣論」をこちらで引き続き展開していきます。
もちろん「貨幣論」で終わるわけではありません。
あくまで「思考のつぶやき」ですから、「・・・」の中身は変わっていきます。