2010年9月6日月曜日

「流動性」としての知性・貨幣および政治家の一般理論

類人猿が、現在の私たちの祖先であるとされるホモ・サピエンスに進化(知的な抽象度を尺度にした場合)したとき、自分たちの「考える」という意識のあり方を不思議に思ったにちがいない。ナニカで生き物を「刺す」とその生き物からは赤い血が流れ、やがて息絶えて死んでしまう。すると、その生き物を食料にしたり、その生き物から襲われたりしないためには、ナニカ「刺せる」ものでその生き物を刺して殺してしまえばいいことになる。石器のナイフ、木の槍、弓矢、青銅器や鉄の武器、そして銃。
ホモ・サピエンスといわれる人類の思考力は、生き物の身体を「刺し貫く」あらゆるモノを考えはじめる。

人間の「流動的」思考力が、なにか「固くて鋭いもの」はいろいろな「 柔らかいもの」を刺したり、切り刻んだりすることができるということに気づいた時、さまざまな素材で、さまざまな鋭利なカタチを「道具」として作りはじめた。
「包丁」や「ナイフ」が料理の道具になったり、人や生き物を殺す道具になったりできるのは、この「固くて鋭いもの」という抽象的に把握された「概念」(イメージ)が形成されてしまたからだ。ホモ・サピエンスという人類の「流動的」で「抽象的」な知性(イメージ力)は、まさに「善悪」の根源なのだ、と言っていい。

貨幣の「流動性」について、こんな解説がある。
「流動性としての貨幣は事態を特定の状態に固定せずに白紙のままにしておくための手段である。貨幣と特定の物との関係は、たとえていえば粘土と焼き物の関係である。どのような器を作ったらいいか迷っているとき、性急に作品を作ってしまうよりは粘土のままで保持したほうがいい。これと同様に、将来が不確実であるときには、貨幣を特定の物に具体化してあとで後悔するよりは、価値を貨幣のままで保持したほうが好都合であろう。やがて雲が晴れ、将来がみえてきたときに、貨幣を物に具体化すればいいのである。」(間宮陽介『市場社会の思想史』)

「政治は金だ」あるいは「政治家は貨幣そのものだ」といった論理がここでも貫かれている。
この見地から言えば、もともと「政治家」の言説(公約や意見)は、彼が「貨幣的なポジション」に留まろうとするかぎり、時代や状況に応じて「流動的」にならざるを得ない「宿命」のうちにある、と言えるだろう。

政治家のある「政治理念」(たとえば「生活」第一主義)が、具体的なある「器」 のかたち(たとえば「子供手当」というお金の使い方)に固執できるのは、それが時代的に求められているときだけだ。「不要」と看做されれば、その「器」を作り変えるか、「器」を作った「政治理念」をいったん白紙に戻して(粘土の状態にして)理念(思考方法)を練り直すか、「政治家」(人間貨幣)を止める他ない。

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