2010年9月8日水曜日

「貨幣」の本質としての「信用」の形成について

前回、「貨幣」の本質として「信用」にゆきついてしまった。だが、いったい人々は「貨幣」のなにを「信用」しているのか?「ままならぬ人生」にとって「信用」とは何なのか?

難しい問いではある。「つぶやき」程度で、これが解明されるとは到底思えない。が、学者でもないのだから、きれぎれに、ぶつぶつつぶやいてみるしかない。

そこでとりあえず、日常の生活のなかの「お金」から考えてみることにする。(あえて名付ければ「普通経済学」)

とにかく、生きるために「野菜」や「お米」や「肉」などを「買って」食べている。ときには不必要な「お酒」も「買って」飲んでいる。(もう今はあまり飲めなくなってしまったが・・・)
この今の世の中で、「買う」ということは「お金」を使ってるということだ。自分が打った「蕎麦」を持って、どこかの「市場」(いちば)で「野菜」や「お米」や「肉」や「お酒」と交換しているわけではない。自分の場合は、いわゆる「現金」を持って「スーパ(マーケット)」やそれぞれの「小売店」に出かけて、それぞれの「品物」(商品)を「買って」いる。

「日本銀行」が発行した「お札」や「コイン」。「日本」という「なわばり」国家のなかで、これらの「お金」は、「いつ」でも「どこ」でも、そして「なん」でも「買う」ことができる。
もちろん「人」を「買って」奴隷にすることは「法律」で禁止されているが、どうも「法律」に触れないぎりぎりのところで、それに近いことをしている輩もいるようだ。(それは、いけませんよ!)

今調べてみたのだが、「コイン」(硬貨)という形状をしている我が「一円」玉にも「五円」玉にも「十円」玉にも「五十円」玉にも「百円」玉にも、すべて「日本国」という「文字」が記されている。それから、「お札」(紙幣)である「千円札」「五千円札」「一万円札」には「日本銀行券」という文字が記されている。(「二千円札」は、いま手元にない。もう不要の紙幣なのではないか?)

ある国の「貨幣」は、この「文字」があってはじめて成立しているのだ、ということはすでに我が「Twitter」で述べたことがあるが、現在の世界中のあらゆる「貨幣」は、それぞれの国(国家=政府)が「このコインやお札で、国内にあるあらゆる商品(ここが大事だよ)を買うことができます」というお墨付き(文字)が記されて成り立っている。要するに「国家」がこの「お金」を保証してくれているからその国の人々(国民)は、薄っぺらな「コイン」や「紙切れ」を「信用」して使っているのだ。

そうすると「貨幣」の本質としての「信用」というのは、結局「国家」(の信用)のことではないのか?ということになってくる。

アメリカの「ドル」にしろ、ギリシャの「ドラクマ」(実質的には「ユーロ」)にしろ、その「信用」(それを所有して使ってもいい、という信頼感)が低下してしまっているのは、アメリカ国内やギリシャ国内のすべての企業や商店が売っているものが「信用ならね〜」ということではない。その国の「多くの」企業や商店で売っているものが、その国の「貨幣」では、ひょっとして「買えなくなる」かもしれない、あるいは、「買えるものの数や種類が減ってしまう」かもしれない、という「不安」が渦巻いて「信用」を低下させているのだ。(いわゆる「為替(貨幣)投機」は、そういう「不安」のなりゆきを読んで、「利ざや」を稼ぐために「売ったり」「買ったり」している。)

「普通経済学」ということで、小学生にも分かる言い方をしてしまったけど、では「国家」とはなんぞや、という話になると、これはこれで、大変なお話になってしまう。
いままで「Twitter」でつぶやいてきたことでいうと、「対」(性)なる人間関係(その意識としての「観念」や「幻想」)が「3人」以上(群れ)の「社会」関係(その意識としての「観念」や「幻想」)に当面したとき、なんとか処理しなければならなくなった「暴力」や「死」(要するに「殺し合い」)の問題を「国家」(という「共同の幻想」)は内包している、と言っておこう。(「国家」の問題は、あらためてつぶやくことになると思う。)

ここでの「貨幣論」が、「暴力のオントロギー(存在論)」(今村仁司)として出発した所以だ。

0 件のコメント:

コメントを投稿