2012年10月19日金曜日

「普遍エネルギー論」ー「太陽エネルギー」と「原子核エネルギー」について(2)

中沢新一が『日本の大転換』において示している「原子核エネルギー」への批判は、ある意味ではとても特異な視点からなされている。

普通人々は、原子核反応によって生成される「放射性物質」(ヨウ素やセシウムやプルトニウム等)がもたらす「有毒性」に対する恐怖心からか、原発の運用が実のところ国家首脳によって「核兵器」の開発を意図していることに対する異議申し立てから「反原発」なり「脱原発」を訴えるのだが、中沢のこの著書での力点はそうではない。中沢はこんな風に「原子核エネルギー」に異議を申し立てている。

「人類も含めてあらゆる生き物が生きている生態圏では、さまざまな化学反応や電気反応が起きることによって、生き物たちの活動はおこなわれている。植物は光合成をおこなって、化学的に太陽エネルギーを変換し続けている。動物の目が獲物を捕えたとき、視神経に発生する光エネルギーの変化が、動物に攻撃態勢をとらせる。人間が悦びを感じているとき、脳では化学物質であるエンドルフィンが、さかんな分泌をおこなっている。幻影も思考も、脳内に起こる電子の運動と一体である。
 ようするに、生態圏に生きる私たちの実存のすべては、安定した原子核の外側を運動する電子によって支えられている。生態圏のなかには、原子核の融合(これは太陽の内部で起こっている現象だ)や分裂(原子炉がそれを実現する)は、組み込まれていなかった。ところが、「第七次エネルギー革命」が実現した「原子力の利用」だけが、原子核の内部まで踏み込んで、そこに分裂や融合を起こさせた。そして、化学反応や電気反応ではとうてい実現できないほどに莫大なエネルギーを、物質のなかから取り出したのである。
 これによって、生態圏の「内部」に、ほんらいあるはずのない「外部」が持ち込まれることになった。エネルギー技術の領域では、これははじめての事態である。しかし、これときわめてよく似たことが、思考の領域ではすでに現実となっていた事実を、私たちは忘れてはならない。
 ほんらい生態圏に属さない「外部」を思考の「内部」に取り込んでつくられた思想のシステム、それはほかならぬ一神教(モノテイズム)である。「第七次エネルギー革命」の産物である原子力技術の、宗教思想における対応物が一神教なのである。」(p29〜30)

ここでも中沢は、「太陽」と同じように「電子」を絶対善の天使のような物語の主人公に仕立て上げている。いわば「電子生態圏」なる王国の王子さまのように「電子」を描いているのだ。ところが「電子」は、「電荷」を担った「素粒子」の一つであり、「原子核」のなかの「陽子」と同じ「物理領域に属する一物質」にすぎない。

 確かに「電子」を共有することで、さまざまな「原子」は「分子」という多様な特性を持った物質に変貌する。その「媒介」となるのが「電子」である。けれどもそのことが、「電子」を「生態圏」にフリーパスで受け入れてもよい根拠になるのだろうか?「電子」は本来的には「原子核内の陽子」と<対>になるべき存在で、「電子」の存在論(オントロギー)からすれば、「陽子」と「電子」はあたかも「男」と「女」のような<対関係>にある存在だ。(ただこの「存在」は、今のところ人間の「眼」(動物的な理性)には、「確率的な存在様態」としてしか捉えられない。)

そういう「電子」の存在論を問う以前に、我々は「電子」のふるまいが惹き起こす「生態圏」にとっての「負」の現象を思い起こす必要がある。「電子」が起こす「電気」によって、人間を含めた生物は感電死する場合もあるし、「電気」の加熱で火災が起こり、家屋が丸焼けにされ、人が焼け出される場合もある。

また「電子」は、植物やわれわれ動物の細胞内で共棲しているミトコンドリアの「エネルギー代謝」を担うものとして、ATP(アデノシン三リン酸)という「生体エネルギー」の素を「生産」してくれているのだが(クエン酸回路)、その際「細胞呼吸」として利用される「酸素」の「電子」が一つ無くなることで「活性酸素」(欠如した電子を求めて、いろんな物質の原子とアクティブに反応しやすくなる「酸素の基底的に不安定な状態」)が発生し、それが生体細胞を傷つけてガンの引き金になることもある。中沢がいうように「生態圏に生きる私たちの実存のすべては、安定した原子核の外側を運動する電子によって支えられている」だけではないのだ。

要するに、それが「生態圏」に属して居ようと居まいと、あらゆる「物質」や「道具」や「存在」は、生物にとって良い場合も悪い場合もあるということだ。中沢の論法は、なにかを良くいうときも悪くいうときも、あまりにも一方的な方向づけをするためのレトリックを多用しているような気がする。第三次の「緑の革命」を起こしたい気持ちが分らないのではないのだが、比喩や隠喩に流れ過ぎている。といっても、中沢の「流動的な思考」に教えられることもたくさんあるので、そのことはまた別のところで評価しよう。

さて、どうやら中沢は、「原子核エネルギー」そのものへの批判もさることながら、それを生み出した「一神教的な思想」を批判することが本旨のようだ。

「一神教の思想はいまから三千数百年前、ヴァリャニャックの分類でいう”第三次エネルギー革命”(註1)のさなかの中近東で誕生した。ことのしだいは『旧約聖書』に詳しく記録されている。」として、「モーゼ」「ユダヤ教」「キリスト教」「イスラム教」の「超生態圏」的な思考を明らかにしてゆく。そしてそれに対する思考法として、インド文明が創造した「シヴァ」という概念の自然宗教的な側面、「アニミズム」や「多神教の神々」がいかに「生態圏」に親和的であるかを語ってゆく。中沢は一神教である「ユダヤ教」をこうも批判している。

「一神教はその生態圏に、ほんらいはそこに所属しないはずの「外部」をもちこんだのである。モーゼの前にあらわれた神は、無媒介に、生態圏に出現する。そんな神を前にしたら、生身の人間は心に防御服でも着想しないかぎりは、心の生態系の安定を壊されてしまうだろう。」(p36)

これではまるで、「ユダヤ教」は「精神的な放射能」を撒き散らす「原子核宗教」だと批判されているようなものだ。(イスラエルの人々は決して容認できないだろう。)
 こういう中沢のレトリックが、この文章を読む読者の思考を隠喩的な錯誤に導く可能性があることを指摘せざるをえない。「原子炉」を作った人間の歴史文化的な思考を明らかにすることと、「原子炉」がかかえる「科学技術的な欠陥」を指摘することとは次元が違うはずだ。これでは「科学技術」が人間(人類)にとってどんな意味を持つのかについて、まともに議論できなくなりはしないか。

 もう一つ気になることがある。それは中沢のいう「外部」と「内部」という概念の設定の仕方だ。

「外部」とか「内部」の定義づけは、たとえば「点」とはなにか?「線」とはないか?と問うことと似てはいないか?数学上の「点」や「線」は理論上の「点」であって、「生態圏」に生きるものの「点」や「線」ではない。それと同じように、理論上の「太陽」や「原子核」は確かに「生態圏」の「内部」に所属する概念ではない。けれども、「生態圏」の現実の生活では「眼に見える点」が打たれ、「眼に見える線」が引かれている。そこで、お互いが私有する土地の「ポイント」や境界「線」をめぐって争いが起こる。(註2)

同じように、「太陽エネルギー」である「光」(電磁波)は、その波長によって良いことも悪いことも「生態圏」の生き物や物質に影響を与えているのはまぎれもない事実だ。「影響がある」ということは、その「影響」をみずからが生きる「環境」として、「内部」の仕組みに取り込んだり、排斥したりして「調整」しているということでもある。「地球」がここにあり、「太陽」があちらにある、という意味では、「星」としてはお互いに「外部」の関係にあるが、「太陽」の重力に引かれ、「太陽」の光を避けようもなく(個々の場面では避けることができるし、避けなければ紫外線による「害」が発生することは、人類はしっかりと経験積みだ)他の生物も彼らなりの「生活上の経験」によって、太陽光との付き合い方はそれぞれが工夫しているはずだ。要するに、「内部」とか「外部」とかの概念が発生するのは<関係>の問題なのだ。
「地球」は、子どもが親を「選択」できないのと同じように、順接の関係としては「太陽」が親なのであり、しかも重力の物理法則に従って「太陽圏」に「関係の絶対性」(吉本隆明)として組み込まれている。

「太陽エネルギー」は、それを現実の生活で利用しているものにとっては「内部」に属するものだ考えることが自然なのではないか? 「生態圏」を<系>として考えるなら当然「太陽圏」もその<系>に組み入れなければ、「太陽エネルギー」で生きているすべての生命体にとって生存の「系列」を組み立てることは不可能になる。順序としては、「太陽エネルギー」が地球に降り注ぐ、ということが先にあって、ではその「光環境」でどう生きていこうかと試行錯誤することになる。それは、シアノバクテリアが発生し、たくさんの藻が「酸素」を発生する環境になるとそれを取り入れてうまく生きる生物が発生することと同じことだ。「太陽圏」の活動が「生態圏」の<内部>に取り込まなければ、「太陽圏」なんて「生態圏」にとっては無意味な存在でしかない。「外部」だとか「内部」だとか議論しても意味のないことになる。

では、 「原子核エネルギー」の場合はどうか?これも中沢自身がこと細かく採り上げているように、地球の「生態圏」の内部に自然発生したことがあるということだ。17億年前の「ガボン共和国にあるオクロ鉱床」というのがそれだ。ここで中沢がすこしオカシイのは、エンリコ・フェルミたちが作った「原子炉」の評価を貶めるように、フェルミは「イノベーター」ではなく、単にオクロの自然原子炉を模倣した「イミテーター(模倣者)としてこき下ろしていることだ。こんなことが、良くも悪くもフェルミたちが人類史上初めてみずからの手で「原子炉」を作った事実に対して、なんの科学的な批判にもならないことは、「野生の思考」を持ち出すまでもなく明らかなことだ。すこし批判の論理が、手当たり次第の材料に頼りすぎて前のめりになっていはしないだろうか?(「オクロの自然原子炉」の存在を認知することは、「原子核エネルギー」が自然に「地球圏」に「内部」化されていることを認めることだ。「地球圏」には当然、「生態圏」が組み込まれている・・・)

「原子核エネルギー」への批判は、「内部」とか「外部」とか、机上の線引きをするのではなく、「原子核反応」を人類が「完全」にコントロールできるのかどうか、「原子核反応」によって生成される「有毒な放射性物質」の処理の問題を、人類が持つ「最高の流動的知性」のひとつである「科学技術的な知性」で解決可能なのかどうかを見極めることではないのか?(註3)

問題は「内部」とか「外部」とかではなく、この「科学技術」(人類の「文明」の先端に位置する思考法)をどう評価するかではないのだろうか。「科学技術」が文明化する以上、宗教上の教理の違いはあまり関係ないように思われる。現に、キリスト教圏もイスラム教圏も中華思想圏もヒンズー教や仏教圏も、そして仏教と神道がないまぜになった日本文化圏も、「原発」を所有し、「核兵器」を最後の戦争の「切り札」(「威嚇の切り札」でもあるだろうが)として所有しているし、所有しようとしている。(註4)

「一神教」と「アニミズム」あるいは「仏教」の教理的な比較をして、自分なりの好みを言えば、一神教的な思想よりアニミズム的な思考や仏教的な「慈悲」の思想の方が好きかな、ということは言える。が、このことは別の宗教思想的な問題として、別の機会に考えてみたい。(註5)

ということで、ここではとりあえず「原子核エネルギー」利用の是非については、現時点で誰も科学技術的な見極めが出来ていないことを考えると先送りにせざるを得ない。そして、「今までの原発」についてはすでに述べたように、二つの理由(「構造的な欠陥」と「核兵器」への転用)で「反対」とはっきりと異議を申し立てておく。

では、さしあたり「原子核エネルギー」を「普遍エネルギー」の一つとして利用できない現状を前提にして、「普遍エネルギー」が「普遍経済」にどう組み込まれてゆくべきなのか、あらためて考えて行きたいと思う。
 

 (註1)エネルギーの「第三次革命」は、次のように分類されている。<家の「炉」 から冶金の「炉」が発達して、金属が作られるようになる。火の工業的利用が発達するようになり、同時に家畜や風や水力がエネルギー源として利用される。金属の発達は国家を生みだす。>(A・ヴァラニャック『エネルギーの征服』)
ここで「金属の発達が国家を生みだす」としているが、いわゆる「農業」が「国家」を生み出したとする農業国家説と違って「金属国家説」を唱えているところが面白い。「国家」はあくまで「武力」で成立させられ、維持できるという「力への意志(ニーチェ)」の「暴力意志論」と読むこともできる。

(註2)国境の「境界線」も特に領海や領空に「線」を引くわけにはいかないので、人間が設定した「緯度」や「経度」でその位置(「点」)を定めて「線」を割り出している。ここでは、数学的な手法が使われている。それでもりっぱに「紛争」になるのだから、人間は面白い。

(註3)吉本隆明は、戦後いち早く始められた遠山啓の「量子力学の数学的基礎」という講義を唯一真面目に受けた講義であると述懐していたが、たぶん彼はこ のとき、ひとりの青年として「物理科学」への信頼を育んだにちがいない。あの一見「原発」を讃歌しているように誤解された「猿への逆戻り」発言は、まだ未 知である「科学技術」への、吉本隆明なりの「仄かな信頼」(だから「仄かに」科学技術と付き合って「とぼとぼと危ない橋を渡って行くしかない」という表現になる)を訴えたかったように思われる。
そしてこの「仄か」な科学技術への「信頼」は、あの吉本隆明らしい「過激な発言」として「完全に安全な原発」を求めているのであって、それができなければ「危ない」原発など止めてしまえ!という含意も含まれている。(それ以上でも、それ以下でもない発言として自分は受けとめてい る。)

(註4)特に自民党を中心にした日本の政治家の多くは、アメリカの核の傘を頼りにしながら、いざとなったらいつでも「核兵器」を作りますよ、という暗黙の担保として「原発」を所有・維持しようとしている。

(註5)ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」のイワンの台詞だったか、「神がいなければ、人間はなにをしてもよいことになる。だから、神が必要なのだ」という理屈に対してこんな風に若い頭(高校生の頃)で考えたものだ。「今まで人類は、神の名のもとに戦争をし、人々を支配してきたのではなかったか? 自分にはそんな神は要らない」といって「無神論宣言」を親に向ってしたものだ。それ以来、基本的に自分は「無神論者」ということになっている。しかし、人 が死への恐怖、死後どうなるのかいろいろ考えてしまう、という「心の在り方」を否定するわけではない、という意味では、「宗教」に関心は抱いている。 

0 件のコメント:

コメントを投稿