2012年10月16日火曜日

「普遍エネルギー論」ー「太陽エネルギー」と「原子核エネルギー」について(1)

中沢新一は『日本の大転換』(集英社新書2011年)において、「太陽エネルギー」を次のように位置づけている。

「太陽の中心部では、水素をヘリウムに変える核融合反応が、大規模に続けられている。四つの水素が融合して、ひとつのヘリウムがつくられるので ある。このとき質量が減る。するとアインシュタイの方程式E=mc2によって、この質量はエネルギーに変換される。こうして太陽中心部で生まれ た莫大なエネルギーは、七十万キロあまりもの旅をして、ようやく太陽表面にたどり着く。その太陽表面で、核融合のエネルギーは光の量子=電磁波 となって、まわりに放射されるのである。
 この電磁波が約八分かけて、地球にたどり着く。地球生態圏は太陽によるこの放射エネルギーを、ほとんどすべての活動の源としている。原子力発電の技術が開発されて、地球上に持ち込まれた太陽中心部の活動の双対とも言える核反応エネルギーが利用されるようになるまで、生態圏に生きる生命の活動全体を支えていたのは、太陽の放射する光のエネルギーのみであった。人類のあらゆる営みもまた太陽の活動によって生かされていた。太陽を偉大な神とする古代の考えは、まことに的を射たものである。」(p69)

中沢のここでの太陽活動の説明はごく普通の解説で、特に異論があるわけではない。しかしながら「太陽を偉大な神とする古代の考え」に共鳴するその仕方に、違和感を感じるものがある。

古代の人々が「太陽」を永遠に存在する「神」のごとく讃え、しかもその「神」に対して恩寵を受けるために奴隷もしくは自らの同胞を「供儀」にしてその心臓を抉り出し、死体は祭壇の下で待ち受ける民衆のなすがままにさせていた、という事実を忘れるべきではない。(註1)
「神」への「畏敬」は、「神」の怒りを慮った「恐怖心」の癒しの儀式も伴っていた。「太陽」は単にただ(タダで)「恵み」を捧げてくれる「贈与」の神ではなく、「恵み」に対する「返礼」をしなければ「怒り」をもってそれに応える「恐ろしいもの」というように、古代の人々は「太陽」を認識していた。あるいは上層部の人間が民衆を統治するために「太陽」をそのような「神」に祭り上げ、利用していた側面もある(中国の「夏」の統治方法は現在でも多くの国で採用されている)。そのことをまず確認しておく必要があるのではないか?

「太陽」は、永遠不滅の絶対的な「善」ではない。実際「太陽」の寿命は、今の人間の科学的な知見でははっきりとは分らないにしろ、およそ60億年〜100億年 と見積もられている。(昔は50億年と言われていた)「太陽」は永遠不滅の「神」などではないのだ。吉本隆明が人類の寿命を「銀河系が果てるまで」あるい は「宇宙が壊れるまで」とした根拠でもあるだろう。(註2)

また「太陽エネルギー」は生物にとって生きるための「恵 み」を授けてくれるばかりではない。反対にそのエネルギーに含まれる紫外線という電磁波は、細胞内の遺伝子を壊し、癌細胞を発生させもする。「原子核エネルギー」のある種の放射性物質の有毒性ほどではないにしろ、明らかな「害」もある。

中沢新一の、人類や他の生命体を思う気持ちに異論があるのではない。けれども「太陽」が人類や他の生命体にとって良い面も悪い面もあるという事実、また「太陽」を信仰の対象にするその宗教性も頭から善しとするわけにはいかないという歴史的な事実、特に「太陽」を唯一の「神」として崇める信仰は、 一神教的な思考にとらわれた宗教として「原子核エネルギー」を批判する中沢自身の所論と矛盾するものだということを指摘せざるを得ないのだ。

「太陽」は、人類や他の生命体にとって「絶対善」でもないし、ましてや「神」などであるはずもない。「太陽」はみずからの物理的な反応の成り行きに従って核融合を起こし、その核エネルギーを「光」として全方向に発散しているだけだ。「地球」のため「光」を意図して「贈与」してくれているのでもなければ、そこに生命体や人類などという「太陽圏」外の「生態圏」が形成されていることなど知る由もないのである。

「太陽」は水素を資源としてヘリウムを生産しながら、みずから輝いている存在だ。水素がなくなれば、その輝きは失われ、恒星としては死滅してしまう。

以上のことを確認した上で、それでも「太陽エネルギー」の利用がこれからの人類や他の生命体にとって「普遍的なエネルギー」としてどのように有望であるのか、あるいはまたどのような欠点を抱えているのか、中沢の所論を追いながら検討してみよう。

その前に、「普遍エネルギー」の意味について 三つのことを確認しておきたい。

1. ここでいう「普遍」の意味は、その「エネルギー」がこの地球上に生きるほとんど全ての生命体にとって必要不可欠なエネルギー源として存在しているということ。

2. 「太陽エネルギー」や「化石エネルギー」等あらゆる「物理化学的なエネルギー」(ここに「原子核エネルギー」も加えるべきなのかどうかが問われている)とそれを利用して生態活動を行う「すべての生物の活動エネルギー」(「人間の活動エネルギー」 いわゆる「労働」だけがモノを「生産」しているのではない、ということ。(註3)「細菌やウイルスの活動エネルギー」も入る)を「普遍的に利用可能なエネルギー」として認知するということ。

3. 「普遍的に利用可能な」というときの「普遍」と は、特に人類がホモ・サピエンスとして「流動的な知性」(中沢新一) を持ち、広い意味での「ことば」でその「利用可能性」を他の同類の仲間に伝達することができる、いいかえれば「利用可能な知識」を「文明(文=言語・記号等で明示的に情報を共有)化」することができる、ということ。

 さて、中沢は「太陽エネルギーを生態圏のなかに媒介的に変換するシステム」として「太陽光発電」にその活路を見出そうとしている。なぜか?

「つまり、人類はいまだかつて、植物が実現した太陽エネルギー変換のメカニズムそのものを模倣した技術によって、産業全体を動かし、文明を育むというエネルギー体制をもったことがないのである。第八次革命(註4)の初期の段階で、重要な働きをすることが期待される「太陽光発電」こそは、電子技術で模倣された植物光合成のメカニズムにほかならない。
  太陽光発電のメカニズムは、原始的な植物のおこなう光合成のメカニズムに、驚くほどよく似ている。そこでは、植物が酵素の働きによって実現していたエネルギー変換が、半導体の働きによっておこなわれる、というところだけが違う。」(p72〜73)

つ まり中沢は、有毒な放射性廃棄物を量産しなければ決して取り出すことのできない「原子核エネルギー」に代わって、植物が日頃なんなくやって見せてくれてい る「光合成」という「中庸なエネルギー技術」を現在の文明的な技術を使って模倣しようというわけだ。それは、第三次の「緑の革命」(註5)と言ってもいい だろう。

中沢が言うように「太陽光発電」は自分も大きな期待を寄せている「エネルギーの産出方法」の一つだ。 手頃な価格の、それなりの容量を持った「蓄電池」の開発とともに、各家庭、各商店、各工場などが自家発電し、余剰分はスマートグリッドのネットワークなどを使って、不足しているところに自動的に送電できるようになればいい、と思っている。そのためには、電気の生産と流通を自由化するのがいいいのかどうか、 いろいろ議論を煮詰めなければならないだろう。その問題は別の機会にゆずるとして、これからの人類は「植物的な生き方」を文明(精神)的にも文化(心)的にもうまく取り込んでいかなければならない、という大きな方向性は中沢の論旨と同じだ。と、とりあえず言っておこう。

ただ「太陽光発電」に関して、次のような問題点があることも指摘しておきたい。

1.「太陽光発電」を行うためのさまざまな「媒体(パネル・フィルム・紙(註6)など)が開発されているが、それらの媒体を作るための材料(資源)も「有限」であること。

2.「太陽光発電」は、天候によってそのエネルギーの産出量はかなり影響されるので、かならずしも安定したエネルギー源とは言えない側面もある。

3. 「太陽光発電」を大容量で発電するためのいわゆる「メガソーラー」なる方式は、ラウンド・スケープとしての景観を損なうことになりはしないのだろうか?「景観」も「文化」の一つである。

以上、「太陽エネルギー」を利用するに際しての問題点も課題にしながら、項をあらためて「原子核エネルギー」の問題を考えてみる。

(註 1)古代の人々が、どうやら自分たちの生活に多大な影響をもたらしていると感じられる太陽」を日々経験することで、ついにその抽象的な思考力によって経験的事象を「神」という概念で絶対化したことは、人類のその段階としては自然な成り行きであったことを否定するものではない。

(註2)吉本隆明「これから人類は危ない橋をとぼとぼと渡っていくことにになる」『思想としての3・11』河出書房新社2011年6月所収)

  (註3)この意味では、アダム・スミス、リカード、マルクスなど古典派経済学が依拠した「分業」「労働」「生産」「価値」などの概念は、ある時代の人間の自己中心的な概念と看做さざるを得ない。そうは言っても人間も、一生物として自分が生きるために 自分の尺度で物事を考えるのは致し方ない面もある。

(註4)「第八次革命」というのは、「第八次エネルギー革命」のこと。A・ヴァラニャックの『エネルギーの征服』は、「人類の経験したエネルギー革命の歴史」を「七 つの段階」に分類しいるということだが、中沢は「原子力とコンピューターの開発」 がもたらした「第七次エネルギー革命」の次の段 階(「第八次エネルギー革命」)として、「植物の光合成を模倣した「太陽光発電」に「初期」の中心的な役割を担わせようとしてい る。

(註5)第一次の「緑の革命」は、「1940年代から1960年代にかけて高収量品種の導入や化学肥料の大量投入などにより穀物の生産性が向上し、穀物の大量増産を達成したことを指す。」(Wikipedia)これはある意味で は今日まで引き継がれていると言ってよい。モンサントなどによる「遺伝子操作」された種子の開発など、これも植物細胞の「核」に人間が手を出している。「原発」問題に劣らず、世界的に問題視されているところだ。
第二次の「緑の革命」は、イランでの「イスラム革命」を挙げておきたい。その宗教体制が良いのか悪いのかの議論はここでは差 し控えるとして、「利子」をめぐる「資本主義的な経済体制の在り方を考えさせられる大きなキッカケにはなった。「利子」をめぐる議論 は、アリストテレス以来いろいろあったにしても。この問題はそれこそ中沢新一『緑の資本論』が、キリスト教とイスラム教の考え方の違いを比較することで、詳しく論じている。

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